社会事業にこそ“経営”の才を。 固定観念を覆し、支援し続ける組織へ 玉井義臣氏 あしなが育英会 会長
1963年に始まったあしなが運動。
1969年以降、延べ11万人の遺児たちに奨学金を届けてきた。
活動がこれほど広く認知されたきっかけ、
また、全員“同志”と表現する組織づくりに対する考えとは。
創始者である玉井義臣氏に話を伺った。
遺児に学びを!街頭から半世紀
―― 21年12月、あしなが育英会の街頭募金が2年ぶりに全国12都市で復活し、話題となりました。
玉井(義臣氏、以下敬称略)
交通遺児の進学支援から始まった「あしなが学生募金」は、時代とともに、病気・災害・自死などで親を失った子どもたちや、親が障がいなどで働けない子どもたちへと支援の輪を広げ、遺児11万人に奨学金を届けてきました。その51年の歴史のなかでも、今回のパンデミックは最大のピンチだったと言っていいでしょう。もう徹底的に痛めつけられました。遺児の家庭はコロナ禍で困窮を極めているのに、毎年春・秋と続けてきた街頭募金が2年分、計4回も流れてしまいましたから。
これまでの蓄えで何とかしのいできましたが、私たちのような運動は、街頭に立ってそれをメディアに取り上げてもらわないと、世間から運動そのものが忘れられてしまう。その意味でも、募金を再開できたことはすごく大きなことです。
―― 全国約200カ所で実施される街頭募金では、自らも奨学金を得て進学した遺児学生のボランティアが活動の中心になっています。
玉井
草創期は学生運動が盛んなころであったため、各地の大学で、遺児救済という私たちの理念に共鳴する若者たちが募金に参加し、活動の基礎を築いてくれました。それを奨学生やそのOB・OGが引き継いで自ら街頭に立つようになったのは、1980年代に入ってから。ただし、そういうスタイルがすんなりと出来上がったわけではありません。
当初は街頭に立つことを頑なに拒む遺児奨学生が多かったのです。親を亡くし、貧困のなかで生きてきた彼らは、心を固く閉ざしがちでした。「何が悲しくて自分のつらい身の上を人前でさらさなきゃいけないのか、まるで物乞いじゃないか」と。その気持ちは痛いほどわかるんです。私も、母を交通事故で殺された“遺児”ですから。
―― リーダーとして、 反対する人々をどう説得し導いたのでしょう。
玉井
私は、彼らを導いたつもりもなければ、自分自身をリーダーだと思ったこともありません。育英会のスタッフや支援者はもちろん、若い奨学生もOB・OGも皆仲間であり、あしなが運動の“同志”なんです。だから、誰にでも己をさらけ出し、同じ目線で本音をぶつけ合ってきました。街頭に立つのを恥じて嫌がる遺児たちには、「教育を受けて身を立てようというものが、問題を人任せにしてどうする。恥ずかしいなんて言っていられるか」と。いま思えば、随分きついことも言いました。
メディアの影響力で世論喚起
―― 会長ご自身のつらいご経験が活動の動機であり、原点なのですね。
玉井
私の原点なんて、いまはほとんどの人が知らないでしょう。私が経済ジャーナリストだった58年前の冬のある日、私の母は暴走車に轢かれ、当時のずさんな医療にも見捨てられて、ボロ雑巾のように死んでいきました。敵討ちを誓った私は、ペンの矛先を急増していた交通事故被害者の救済問題へと向け、メディアに発表し、日本の“交通評論家第一号”とよばれるようになったのです。
テレビにもよく出ました。特に当時の大人気番組「桂小金治アフタヌーンショー」の交通キャンペーンに、レギュラーで出演したのが大きかった。世論への影響力が段違いですからね。当会の共同創業者である岡嶋(信治氏・名誉顧問)さんがテレビ局に訪ねて来たのもこのころでした。親代わりのお姉さんをひき逃げで奪われた彼と対面するや意気投合し、遺児救済の運動を旗揚げしたのです。