第12回 監督が怒ってはいけないバレーボール大会 益子 直美氏|中原 淳氏 立教大学 経営学部 教授
女子バレーボール元日本代表の益子直美さんは、指導者が「怒ってはいけない」小学生のバレーボール大会を開催しています。
益子さんと、スポーツ指導の在り方について考えます。
女子バレーボール日本代表として活躍した益子直美さんは、2015年から毎年、福岡で「益子直美カップ小学生バレーボール大会」を主催しています。大会のルールは、「監督やコーチが選手を怒らない」こと。ルールを破った監督は、益子さんからお叱りを受けます。
このユニークな試みは、自身の体験がベースとなりスタートしました。1980年代の女子バレーボール人気を牽引するスター選手であった益子さんですが、「選手時代、バレーが大嫌いだった」といいます。その理由は、中学、高校時代の厳しい指導にあるとのこと。
「怒られたことしかなかった」益子さんは、子どもたちにバレーボールを楽しんでもらいたいという願いから「指導者が怒ってはいけない」大会を思いつきました。
これまでに6回開催しましたが、回を重ねるにつれ、変わってきた監督たちの姿に手ごたえを感じている一方、「怒る指導なしに勝てるのかどうかはわからない」と話す益子さん。スポーツ指導の現場で、パワハラがなぜ起きてしまうのか。指導者は、選手、チームをどう導くべきなのか。お話をうかがいました。
引退を目標にバレーをしていた
中原:
イトーヨーカドー女子バレーボールチームを率いて優勝し、全日本の代表メンバーでもあった益子さんが「バレーボールが嫌いだった」とは衝撃です。本当ですか?
益子:
本当にバレーが嫌いでした。引退を目標にバレーをやっていたと言っても過言ではないほどです。といっても、そう言えるようになったのは最近のことです。現役時代は口が裂けても言えませんでしたから。イトーヨーカドーで、優勝を目標に頑張っていたのも「優勝という目標を達成すれば辞められる」と思っていたから。ですから、初優勝したら、すぐに監督に「辞めます」と言いに行きました。しかし、そのときは「全日本に選ばれているからダメだ」、翌年は「後輩が育っていないからダメだ」と言われ、やっと辞めることができたのは3年目の25歳のときでした。
中原:
引退が目標だったとは、驚きです。当時の人気アニメ「アタックNo.1」に憧れ、中学でバレー部に入部されたそうですが、当時はいかがでしたか。
益子:
小学生までは背が高いことがコンプレックスだったので、中学でバレー部に入ったとたん、それが長所に変わったことはうれしかったのですが、強豪チームでしたので、練習は厳しかったです。ただ、当時は「アタックNo.1」のように「苦しくったって、悲しくったって……」という世界が普通だと思っていたので、怒られながらレギュラーになり、キャプテンになり、東京都選抜になり、関東選抜になり、全国の選抜合宿に呼ばれるまでになりました。
中原:
すごいことですね! 私は、体育の成績が2だったので尊敬します。
益子:
ところが、中学の監督に一度もほめられたことがなかった私はまったく自信がもてなくて、代表チームの監督からほめられても「信用できない!」と一切受け入れることができずにいました。その後、中学の全日本チームで台湾遠征に行くことになったのですが、「私には無理」と引退しました。
中原:
え? 中学で引退ですか?
益子:
実は私、中3の夏前に辞めているのです。バレーを辞めて、勉強を頑張ろうと思ったのですが、いざ勉強をやってみると、「私は勉強よりバレーの方がまだセンスがあるかも」と気づき、バレーに戻りました。
監督はなぜ怒るのか
中原:
しかし、全国レベルのエース級選手だというのに、部活ってそんなに怒られるものなのですか。
益子:
当時は、怒られることしかなかったですね。休みはないし、監督も先輩も怖いし。なぜ怒られているのかもわからず、ただただ、怒られないためにやっているような感じでした。中学でも高校でも、ぶたれたり、たたかれたりしない日の方が少ないくらい、毎日ぶたれていました。
中原:
監督はなぜ怒るのですか。
益子:
先生の機嫌もあったと思うのですが、ミスをすると誰かが殴られていました。私は最高で往復ビンタ21連発でしたが、それでも高校時代に殴られたランキングは3位くらいで、もっとひどい目にあった子もいましたね。今思うとかなりひどかったのですが、当時はしかたないと思っていました。