OPINION1 「数字に魂を入れる」ことが大切 “戦略人事”に基づいた人的資本経営とその開示に求められること 守島基博氏 学習院大学 経済学部 経営学科 教授
人的資本経営とは「人を大切にする経営」といわれる。
しかし、そもそも古くから人を大切にしてきた日本企業に、なぜいまこれが求められているのか。
情報開示の義務化がスタートしたいまだからこそ、改めて考えたい人的資本経営の本質。
そして、その実現のために企業や人事に求められることを聞いた。
[取材・文]=平林謙治 [写真]=守島基博氏提供
大事なのは開示することではない
今年3月期決算から人的資本情報の開示を義務づけられたのは、有価証券報告書を発行する上場企業およそ4,000社。初回だけに、五里霧中で準備を進め、開示にまでこぎつけたという企業も多いだろう。
だが、逆説的な言い方をすれば、開示の取り組みを経験することで、改めて「大事なことは情報開示そのものではない」という、人的資本経営の本質が見えてきたのではないか―― 。人的資源管理論の第一人者である学習院大学経済学部の守島基博教授は、今回の義務化スタートを、まず次のように振り返った。
「政府発表のガイドラインに沿って開示義務のある情報を開示すれば、コンプライアンス的には問題がないわけです。でも、それだけでは十分ではない。本当に開示すべきことは何なのか、そもそも何のために開示するのか、といったところまで目を向けている企業が意外に多いという印象を持っています。一部の先進企業のなかには、開示したKPIについて、なぜそれを公開するのか、なぜそういう値になっているのか、これからどう改善していくのかなどを丁寧に説明している例もあります」
従来の財務諸表の数字だけを見ていても、企業の真の実力や成長性は測れないといわれるようになって久しい。そこに表れていない無形の資産―― すなわち人的資本の価値を重視する投資家や株主が増えてきたことから、多くの企業の意識はどうしても、「人的資本の可視化とその情報の開示」に偏りがちだ。だが、守島氏はかねてその風潮に警鐘を鳴らしてきた。
「例えが適切かはわかりませんが、私はよく、情報開示とは『初めてのおうちデート』だと言っています。彼氏彼女を初めて自宅によぶとき、部屋をただそのまま見せていいかというと、違うでしょう。汚れた皿が流しに積みあがっていたり、布団が敷きっぱなし、という状況を大切な人に見せますか。人的資本情報の開示も同じで、自社の現状がちゃんとしていないのに、見せても意味がない。一にも二にも、そこを整えることが肝心です」
投資家が企業に本当に求めているのは、数字やデータではなく、経営戦略に沿った人材活用や人材投資がどれだけ実践されているか、それが企業価値向上にどれだけ結びついているか、に尽きる。義務化が始まり、対象が上場企業以外に広がる流れもあるが、そうしたいまこそ、「開示を目的化してはならない」ことをまず肝に銘じておきたい。
「人を大切にする」の意味が変わった
とはいえ、今回の開示の結果が、投資家や株主、就活生、求職者らの反響をよべば、さらに多くの企業が人的資本経営の必要性を認識するに違いない。守島教授が言うように、「自分の部屋をちゃんとしなければ」と考えるようになるだろう。
経済産業省の定義によると、人的資本経営とは、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」とされるが、端的に「人を大切にする経営」という言葉で置き換えられることも多い。この「人を大切にする」は、そもそも日本型経営の伝統ではなかったか。守島教授は「『人を大切にする』という表現はそのとおりだが、昔とは意味が変わってきた」と指摘する。