巻頭インタビュー 私の人材教育論 変化に対応できる組織は “柔らかな気持ち”を持つ
鈴与は、静岡県を基盤とした140余りの会社が集まる一大グループ企業である。
近年では、航空事業「フジドリームエアラインズ」の経営にも乗り出し、注目を集めている。
柔軟に変化に対応し、“古くて新しい”同社を率いてきた会長に、その秘訣を聞いた。
200年という長寿の秘密
―「鈴与」といえば静岡県、東海地方を基盤とした、創業200年を超える老舗企業です。長寿の秘密はどのような点にあると思いますか。
鈴木
そうですね、会社の価値というのは歴史が古いところにあるわけではなく、時代時代で大変な変革の時を乗り越えてきたところにあるのではないでしょうか。
当社は1801年に清水港で廻船問屋(海運業)として創業しましたが、例えば明治維新の時は、問屋の特権だった免許制度が廃止されたため、事業の転換、多角化を余儀なくされました。その後も大恐慌や米騒動などに遭遇し、昭和になれば太平洋戦争と、さまざまな危機に直面してきました。戦後は戦後で石炭から石油への急激な燃料転換が起こり、さらにはガスの需要も拡大するなど、時代によって扱う商品が変わっていったのですが、都度変化に一生懸命対応してきました。
その結果、現在は、物流、商流、建設、食品といった事業を中心とする140余りの会社が集まるグループになりました。
最近でもよく社員に言っています。「変わることを恐がるな。思い切って新しいものに取り組んでみよ」と。そのチャレンジ精神が今の当社グループをつくったのだと思います。
苦労の軌跡
―ご自身は昭和52(1977)年、36歳で社長のポストに就かれたとのこと。その経緯は。
鈴木
昭和50年に父が65歳で社長を退き、会長になりました。そして父のすぐ下の弟が社長になったのですが、残念にも程なくして亡くなり、私は日本郵船から戻った直後でしたが、36歳で突然社長を継ぐことになったのです。子どもの頃から、「大きくなったら後継ぎになるんだぞ』と父親に言われていたので驚きはしませんでしたが、緊張感があったことは確かです。
―1977年頃と言えば、第1次・第2次オイルショックの間の頃。大変なご苦労をされたのではないですか。
鈴木
日本中が大不況となっていて、当社もてんやわんやの大騒ぎでした。それまで赤字を経験したことのなかった会社が、初めて経験する経営危機だったものですから、それは一大騒動です。人や組織を変更・交通整理したりなど、手を打つ必要がありました。
当然、人員の把握やマネジメントも必要になりますから、人事部長に「うちには今、社員が何名いるのか」と聞いたところ、いろいろな数字が出てきました。当時既に多角経営でしたが、例えばガソリンスタンドなどでは定数がはっきりせず、雇用形態もバラバラでした。正社員、期間雇用、アルバイトなどいろいろな形態が混在して、組織も複雑化しており、正確な数を把握できていなかったのです。
それまで人員整理とは全く縁のない会社だったのですが、この時ばかりはある程度余儀なくされ、労働組合と交渉し、妥結するまで大変でした。
経営が安定したという感覚を得るまで、15年から20年ほどはかかったでしょうか。
しかしその時に、今、他社が行っておられる雇用形態の整備や勤務形態に関連する制度の整備をあらかた行ったので、その後大きな混乱はなく済みました。