人材教育最前線 プロフェッショナル編 人事の〝維新〞的大転換を 財産として次代に継承する
「カルロス・ゴーンのマネジメントになって、最も変わったのが人事かもしれない」。1990年代、経営不振に陥っていた日産自動車は、仏・ルノーとの提携を機に、ゴーン氏のもとで経営再建に取り組み、V字回復をとげた。
その変革に最前線で関わってきたのが、人事本部副本部長の奈良崎修二氏である。
1980年代から日産で人事部門を中心にキャリアを築いてきた奈良崎氏に、ゴーン氏のもとでの人財マネジメント改革は、どのようなインパクトをもたらしたのか、また、その体験から得たものについて伺った。
現場を知ることがプラスに
「国の発展を支えているものづくり企業に入りたい」との思いから、奈良崎氏が日産に入社したのは1980 年。最初に配属されたのは、栃木工場の人事課だった。
「まだモータリゼーションが伸びていた時期でしたから、人が足りず、期間工の方々を採用するのが工場人事の一番の仕事でした」
その後、追浜工場、本社へと異動し、人事のオペレーション業務に8 年ほど携わった後、生産管理部門に異動となり、再び栃木工場で新車生産の立ち上げ業務を3年弱担当した。
「新車生産の立ち上げのコーディネーションは、設計、製造技術、部品のサプライヤーなど、多種多様な人と関わるため、自動車会社の全体像が理解でき、後に人事に戻って仕事をするうえで非常に役立ちました。仕事は苛酷でしたが、車づくりに初めて携わることができ、精神的には楽しかったですね」
その後さらに、いわき工場の建設と、新エンジンの立ち上げに約4年間携わった後再び人事に戻り、1994 年、開発部門である日産テクニカルセンターの人事課長に就任した。
「新たに開発部門の人たちと知り合えたことはよかったのですが、当時は赤字続きで会社が苦境に陥っていた時期でした。テストコースの閉鎖など、リストラに近い仕事が多く、会社が傾くというのはこんなにも辛いことなのかと痛感しました」
1998 年、奈良崎氏は本社の経営企画室に異動となる。そこでの業務は、海外の自動車メーカーとの資本提携交渉だった。当時の日産はいつ倒産してもおかしくない状況にあった。
「資本提携交渉というと聞こえはいいですが、要は会社の株をいくらで売るか、という交渉です。直接の交渉相手はメーカーから依頼を受けた外国の投資銀行や弁護士などの買収のプロたちです。彼らから値踏みをされ、それに対して、『当社にはこれだけの価値がある』と反論しなければならない。しかもその交渉が複数社、同時に進行する。社員にとってこんなに辛い仕事はないと思いました。これまで出会ってきた多くの人たちが、いい車をつくってお客様に喜んでいただこうと一生懸命取り組んでいるのに、そんなことを何も知らない人たちから値踏みされるのですから、本当に悲しいものでした」
ルノーの姿勢
約1年にわたる資本提携交渉の末、ルノーとの提携が決定。社内の空気は、会社が存続することへの安堵感と、これから一体どうなるのか、という不安感がないまぜになっていた。
日産にとって幸いなことに、ルノーは提携を成功させるため、日産をイコールパートナーとして尊重し、関係会社を含めた日産の組織をそのまま存続させた。ルノーから送り込まれた人数もわずかで、日産の人財もそのまま引き継いで生かしていく姿勢を表していた。
「ゴーンは来日した20 数人のメンバーとのミーティングで、自分たちは支配者ではなくパートナーであり、日産の再建のために来ているということを口酸っぱく言ったようです。極端な話ですが、ある案件で日産とルノーが利益相反になったら、日産側に立つとまで明言していました。それを聞いて大変驚きましたし、彼らの本気さを感じました。こうしたルノー側の姿勢から、再生への機運が生まれてきたのだと思います」