論壇2 ~水野忠辰の悲劇に学ぶ~ 改革を進める組織幹部が留意すべきもの
古今東西、さまざまな組織が問題に直面し、紆余曲折を経てきた。その紆余曲折が「歴史」だとすれば、失敗にも成功にも学ぶところはある。本稿では、中でも江戸時代中期、三河国岡崎藩(現在の愛知県東部)で起こったある失敗例から、組織改革とリーダーのあり方について、現代にも通じる教訓を学びたい。
1.はじめに
この事例は、江戸時代中期に現実に起きたことである。当時、全国諸藩とも財政が極度に逼迫し、それぞれ行財政改革が強く求められていた。これに対して各藩ともさまざまな取り組みを行っていった。その結果当然ながら、成功した藩もあり、失敗した藩もあった。すでによく知られている上杉鷹山(ようざん)が藩主であった米沢藩は、改革に長い年月がかかったが、成功例として高く評価されている。ここに取り上げる岡崎藩は、失敗した例である。改革を進めていった藩主、水野忠辰(ただとき)は途中で挫折して、悲劇的な死を迎えた。当時も、長期間にわたり経済的低迷が続いていた。幾度となく襲う地震や冷害、さらにイナゴの大群による被害もあり、農業の生産性は落ち込んでいた。おしなべて全国諸藩とも領民全体の意欲・活力が減退し、閉塞感に覆われていた。私見として、多くの藩で藩自体がビジョン・方向性を見失っており、領民それぞれもそれを掴みあぐねていたからだと解釈している。さて、現代の企業や自治体、学校など各種法人は、この事例の時代背景や具体的な問題状況に、いろいろな違いがある。しかしこのような基層部分では相通じるものがある。これらの状況を打開するために、組織幹部や構成メンバーはいかにあるべきか、またその過程で問題や課題に直面した時いかに行動すべきかについての「解」は、時代が変わってもほとんど違いはないと感じる。組織自体が状況の変化に適応して存続発展でき、また構成員全員がビジョンや一つの方向を実現するために一丸となって取り組める状態にするにはどうしたら良いのか。それを明確化し伝承し、さらにノウハウの蓄積を、たえず続けていかなければならないと考えている。経営幹部の方々は、改革を進めていくうえでの留意点をこの事例から掴み取り、実際の場面で展開していただきたい。また、幹部を輔佐する管理者の方々は、その幹部の改革を適切にサポートするために、この事例から抽出した要点を、大いに具申し自らも実践してほしいと考え本稿を寄せる。
2.祖父からの薫陶と改革の開始
江戸時代中期、三河国岡崎藩は6万石、藩士の数は約1300人という小藩であった。しかし藩祖は徳川家康と血のつながる家柄で、水野家は譜代親藩の名門として、将軍家から代々重用されていた。特に第4代の藩主、水野忠之は、早くから認められて、奏者番、若年寄、京都所司代などの要職を歴任した。やがて享保2年(1717)9月に老中に就任した。これは第8代将軍、徳川吉宗の「享保の改革」の開始時である。忠之はしかもこの時、御勝手方老中、現在の財務大臣として吉宗を支えていった。彼はこの職務を13年間務め上げ、享保15年(1730)6月に退いた。彼はその後隠居し、藩主の座を40歳の息子、忠輝に譲った。しかし忠輝は7年後に死去した。これを継いで忠辰が第6代の藩主となった。元文2年(1737)9月、この時彼は満13歳であった。忠辰は忠輝の長男として、享保9年(1724)4月22日に生まれた。彼は幼い時から聡明で、祖父、忠之から深く愛情を注がれ、薫陶を受けた。忠之は隠居後、特に忠辰を近くに呼んで彼に語り聞かせた。長年仕えてきた吉宗の人となりや改革の進め方のすばらしさなど、繰り返し語った。また人々を統率することの重要性や、人の上に立つ者のあり方などを忠辰に教えた。忠辰は忠之の話をよく聞き、自らさらに勉学に励んでいった。同時に、財政状況の厳しい藩の実態についても話を聞き、自分でもさまざまに調べを進めた。歴代の藩主が幕府の要職に就いていたため、藩からの資金の持ち出しも多かった。さらに度々の災害が農村を襲い、藩の財政はひどく逼迫していた。忠辰は藩を財政的により良い状態にすることが、自分の使命だと心に強く誓った。そして側近の若い侍たちと、改革を行ってゆくための、工夫を凝らしていった。