巻頭インタビュー 私の人材教育論 自社の歴史を尊びノウハウや技術とともに文化や理念を継承する
1957年に自動車タイヤ用合成ゴムを造る半官半民の国策会社として誕生したJSR。歴代の経営者たちは、合成ゴムだけでは事業が先細りになることを案じ、電子材料などの新規分野への多角化を志向した。今、その多角化は実を結び、それぞれが中核的事業に育ち、同社の継続的な成長を支えている。2009年から社長となった小柴満信氏は、そんな堅実な同社でも、近年大切なものを薄れさせてきていると感じている。そしてそれを取り戻すのには、「歴史」――先人の知恵がカギとなるとも語る。その本意と、これからの人づくりへの決意を聞いた。
突然の大役にもワクワクした
―― 小柴社長は1980年3月に千葉大学大学院の修士課程を修了されてから、米国の大学に留学されています。どのようなお考えからでしょうか。
小柴
ちょうど第二次オイルショックの時で、就職するのに良い時期ではありませんでした。そこで、ロータリークラブの奨学生の試験を受けて、ウィスコンシン大学大学院の材料科学科へ入り直しました。千葉大で印刷工学を学びましたが、材料分野の基礎的な勉強を、再度大学院でしっかりとやってみたいと思ったのです。
―― その後、縁があってJSR(当時は日本合成ゴム)に入社されます。
小柴
入社後は東京の研究所に配属されて、電子材料の研究などをやっていました。当時、当社は合成ゴム中心の会社でしたから、合成ゴム以外の研究者は、肩身の狭い存在でしたよ。
9年間、研究所で過ごした後、1990年8月に突然、「米国にジョイントベンチャーをつくる。お前行って会社をつくってこい」と命を受けました。今もシリコンバレーにある「JSR Micro, Inc.」の前身会社の立ち上げのためです。
―― 「JSR Micro, Inc.」といえば、半導体製造の際の材料となる「フォトレジスト」をつくるという、御社の多角化を象徴する事業で、近年の御社成長の原動力になったとお聞きしました。小柴社長はこの事業の最初から関わられ、今日の地位を築き上げた功労者なのですね。
小柴
当時、私は一介の研究員で、管理職でもありませんでしたから、そんな人間によく会社は出向命令を出したと思います。最初はJSRから私1人と、合弁相手からの米国人の2人で会社の立ち上げから始めました。当初、ベルギーのUCBとの合弁で、「UCB‐JSR ELECTRONICS,INC.」としてスタートしたのですが、3年目にUCB 側の株式を買い取り、当社単独出資の会社「JSRMicro, Inc.」になりました。
―― 出向の命を受けた際はどのような気持ちで受けとめましたか。またどのような意識で仕事に取り組みましたか。
小柴
34歳と若かったし、留学経験もあったので、正直海外へ飛び出して何か事業をしたいという気持ちはありました。ですから、カリフォルニアへ行った時には、これで自由に自分の力を試せる仕事ができる、とワクワク感でいっぱいでしたね。加えて、負けず嫌いの性格だったものですから、米国だろうと関係なく、業界でナンバーワンになり、次に世界でナンバーワンになってやる――そんな高ぶった気持ちを持っていました。
ピンチをチャンスと捉え不利に見えても挑戦する
―― 黒字化の目標、売上高の目標など、数値目標はおありだったのでしょうか。
小柴
もちろんありました。ですが数字は結果であり、結果よりもプロセスを評価されたように思います。重要なのはその時、何をするか。私はまず一流企業に商品を売り込むことが最善だろうと思い、当時、一流半導体メーカーと評判の高かったモトローラ、TI(テキサスインスツルメンツ)に目を向け、アタックしたわけです。幸い両者とも当社製品を採用してくれた。米国にやってきてわずか2年目の日本の会社が、モトローラやTIのような一流企業に商品を採用されたことで、市場で1つの評価を得たことは確かでしたね。1992年頃のことです。