巻頭インタビュー 私の人材教育論 創業者のDNAと夢を伝え、未来に開花させる大和ハウス流育成術
1955年、「建築の工業化」を企業理念に創業した大和ハウス工業。
住宅や商業施設の建築を行うなど、幅広い事業展開を進める。
さらに環境エネルギー事業、ロボット事業、農業事業などに進出。
創業100周年を迎える2055年までに売上高10兆円の企業群をめざしている。
その原動力となるのが、創業者である故・石橋信夫氏の仕事哲学だ。
同社のDNAともいえるその教えとは。
「志のある人材」をつくる
―― 2015年に、御社は創業60周年を迎えます。抱負をお聞かせ下さい。
樋口
目標は売上高2兆5000 億です。そして100周年の2055年には“10兆円企業”をめざす。これが当社の創業者にしてオーナー、故・石橋信夫の夢です。
私の夢は、創業者の夢を実現することに他なりません。それは同時に社員全員の夢でもあります。そして、この夢を達成するために、大和ハウス工業はサステナブルな企業にならなければなりません。夢を実現するのは人材。だから人材育成には特に力を入れなければならない。
――良い人材と、そうでない人材の差とは。
樋口
能力の差より“やる気の差”だと私は思っています。つまり、明確な「志」を持っているかどうか。志さえあれば、どんな艱難辛苦をも乗り越えることができる。逆に目標なき人材は、羅針盤のない船のようなものといえます。つまり、志を持たせるような教育こそ、人材育成には不可欠なんです。
私自身は20歳の時、「事業家になる」という志を持ちました。当時の日本はまだまだ食糧難の時代です。子どもたちにひもじい思いをさせまいと、こっそり質屋に入る母親の姿を見て、親の思いに報いようと決意を固めました。
ですから、大学から斡旋された3つの就職先候補のうち、一番小さな鉄鋼商社へ入りました。小さい会社なら組織の歯車としてではなく、さまざまな仕事を自分で手掛けられる。会社というものの仕組みも大体わかります。将来、事業家になるためにはもってこいだ、と思いました。
しかし、時は「鉄は国家なり」といわれた昭和30年代。はっきりいって、商売は楽でした。勤務時間は短いし、給料も比較的良かったです。植木等の「サラリーマンは気軽な稼業ときたモンダ」という唄がありましたが、まさにああいう感じでした。私には20歳の時の一大決心がありますから、だんだんその楽な環境に慣れることが怖くなった。若い時から生意気だったため、あらかじめ敷かれたレールの上を走っているだけでは大成できないと思った。
それで転職を決意しましたが、さて、転職先はどこがいいのか。あれこれ探している時、とある週刊誌の記事に目が止まった。「不夜城 大和ハウス」という見出しが躍っている。読むと、折からの住宅ブームで急成長している会社という。ここや、ここでしごいてもらおうと思いました。
周囲は反対しましたが、親父はこういって背中を押してくれました。「どんなにいい会社でも、何十年も勤めていたら辞めたくなる時が来るやろ。そんな時、人に勧められて入った会社なら勧めてくれた人のせいだ、と思うかもしれない。失敗を他人のせいにするくらいなら、自分で決意したことをやるがいい。誰の人生でもない、お前の人生や」と。
とはいえ、募集していたのは「歩合制セールスマン」。身重の妻を持つ身でしたから、面接の時、人事課長に「それでは困る、正社員として採用試験をしてほしい」と申し入れました。「厚かましい男だ」とあきれられましたが、資材担当の専務が面接をしてくれて、運良く正社員として入社することができました。
入社後は大阪・堺工場に配属になりました。当時、自宅は池田市にあったので、午前7時半から始まる工場全体の体操に参加するためには、5時半に自宅を出ないといかん。夜は夜で、鉄以外の資材や工場のラインなど、自分で勉強すべきことが山ほどある。だから、退社は午後10 時。それから帰宅すると就寝は午前1時。毎日、睡眠時間は4時間あればいいほうでした。
そういう生活を、かれこれ2年間続けました。辛かった。転職の時、親父がいってくれた言葉がなかったら、挫折していたかもしれない。あきらめそうになるたび、あの時の言葉を思い出し、「そうや、おれは自分で決めたんだ」と歯を食いしばりました。もちろん、その思いの奥には「事業家になる」という志があったわけですが――。