人材教育最前線 プロフェッショナル編 フランス映画のような余韻で 研修と現場の学びをつなぐ
工業用シール剤・接着剤の分野のリーディングカンパニーであるスリーボンドの創業は1955年。現在は、日本、北中米、南米、欧州、アジア、中国の世界6極体制を軸としたネットワークづくりを進めている。人材開発部部長の大石正人氏は、12年もの長きにわたるアメリカ駐在の経験を持つ。社会人野球の選手としてスリーボンドに入社した大石氏は、ユニフォームからスーツに着替えた後も、営業、海外転勤、そして教育担当と幾度となく試練を乗り越えてきた。未知の役割にも常に全力投球する強さと情熱を持つ大石氏に、人材開発への思いを聞いた。
渡米で自覚した日本人であること
スリーボンドの人材開発部長、大石正人氏の経歴はユニークだ。「教育学部出身ですから、本来なら高校教師として教鞭を執っていたはずでした(笑)」もっとも、教員志望は大学2年まで。大石氏は、大学3年で方向転換し、野球で身を立てる道を選んだ。というのも、大学の2年先輩に当たり、現在はスポーツキャスターとして活躍する栗山英樹氏が、この年、ドラフト外でヤクルトスワローズに入団したからだ。野球部の仲間たちからも「次はお前だ」と期待されていた大石氏は、まずは社会人野球の選手として活躍することをめざし、最初に内定が確定したスリーボンドに入社した。スリーボンドには、1970年代から1990年代にかけて硬式野球部があった。大石氏が就職を決めた当時は、都市対抗でベスト8に入るほどの強豪チームだった。しかし現実は厳しい。2年後、大石氏の野球人生は幕を閉じる。戦力外を通告されたのである。しかしまもなく、スリーボンドでビジネスマンとしての道を歩もうと、気持ちを切り替えた。「野球で身を立てることが難しくなり、ショックはショックでしたが、思ったほど気落ちはしませんでした。新天地の福岡は、山梨県出身の私には初めての土地。仕事が面白かったのか、上司や同僚と一緒に仕事をすることが楽しかったのか、九州という土地柄に合ったのか……。おそらく、その全てに恵まれたからこそ、心機一転、仕事に没頭できたのかもしれませんね」スーツ姿も板についた3年半後の1991年8月、大石氏は突然アメリカへの出向を命じられる。29歳だった。以来、2004年の元旦に日本に戻ってくるまで、大石氏はアメリカで過ごすことになる。その年数は、実に12年と4カ月。「アメリカという国、人々、文化と比較することで、日本という国、日本人であるということを非常に意識するようになりました」最初の4年間は、アメリカ社会に適応するのに精一杯だったという大石氏。赴任先は中西部のオハイオ州シンシナティだった。ニューヨークやロサンゼルスといった大都市のような、「人種のるつぼ」といった雰囲気はない。現地の人たちには、外国訛りの言葉を理解しようという姿勢もあまりなかった。営業で結果を出すには、現地の人たちと対等に会話できる語学力が必要だった。「アシスタントマネジャーという立場で赴任したため、マネジメントだけではなく、営業マンとしての結果も出すことが求められていました。商品説明ができない営業マンなど、それこそ話になりません。何としてもネイティブと対等にビジネスができる英会話をマスターしなければと、徹底して英語を学びましたね」