人材教育最前線 プロフェッショナル編 地道で煩雑な日々の仕事からも 前向きに学ぶ枠組みを整備
妊娠、出産、子育て、介護の分野で、経営理念である“愛”を商品やソフト・サービスとして提供するピジョン。1957年の設立以来、右肩上がりの成長を続け、現在、「グローバルカンパニーとしての自立」をスローガンに海外への積極的な事業展開を行う。同社では、そのための不可欠な枠組の1つとして、自立型人材の育成をめざす人事制度の仕組みを整備し続けている。その推進役を担っているのは、執行役員 人事総務本部長 板倉 正 氏だ。営業職をはじめ多様な職種を経た板倉氏は、「人事の専門性を高めたいという思いが徐々に強くなっていった」と話す。そのココロを伺った。
「ピジョン党」の姉からの“推薦”で入社
現在、ピジョンで執行役員 人事総務本部長を担う板倉 正 氏が入社したのは1987年。日本はバブル景気を背景に、採用は圧倒的な売り手市場だった。とはいえ、いつの時代も学生の就職活動は人生のターニングポイント。理工学部で応用化学を専攻していた板倉氏は、材料・化学系の企業の研究職に就くために就職活動を行っていた。それがなぜ、日本最初のキャップ式広口哺乳器を発売したピジョンに入社したのか?「実は、当時妊娠中だった姉が、ピジョンへのエントリー用のはがきを見て、熱烈に薦めてきたんです。ピジョンブランドといえば、当時から妊娠、子育て中の女性から絶大なる信頼を寄せられていました。彼女もまた、いわゆる『ピジョン党』の一員。大学の春休みの時期にちょうど出産で帰省していた姉の行動が全ての始まりでした」はがきを投函したその後、人事担当者から電話があり、面接を受けることになった。大学のOB、そしてその上司の2人と話をする中、会社の自由闊達な雰囲気に惹かれた。その流れのまま役員面接を受けることになり、採用が決定。ピジョンへの就職を決めた。「これも縁かな」と笑う板倉氏だが、今でこそ世界中でその技術と品質が認められるピジョンも、当時は上場を目前に控えていた状況だった。同社が店頭公開を果たしたのは、板倉氏が入社した翌年の1988年である。東証2部上場が1995年、そして1部上場に指定替えしたのが1997年……。バブル崩壊後の失われた20年で、多くの日本企業が苦戦を強いられていた中、ピジョンはずっと右肩上がりの成長を続けてきた。少子化という逆風の中でも、同社がこれほどの成長を実現できたのは、真摯な研究開発による商品力が消費者に高く評価されてきたからに他ならない。また、多くの一般家庭に、家計を支える「6つのポケット」(祖父母と両親)が存在していることも、業績拡大の追い風となった。それまで面接を受けてきた材料・化学系企業の堅苦しさとは異なるピジョンの企業風土に強く惹かれたと板倉氏はいうが、会社設立以来の発展の息吹を、まだ学生だった板倉氏も感じ取っていたのだろう。「採用が決まると、希望通り商品開発の仕事に配属してもらえると聞きました。応用化学を学んでいたこともあり、大学で学んだことが生かせると意気込んでいたんです。ところが入社直前の2月、『開発の仕事に就く前に営業の現場を経験してもらう』という内示が……。こんなはずではなかったのに、という思いを抱えながら大阪店の販売部へと配属されました」本人が意図しない人事ではあったが、こうして板倉氏のキャリアはスタートすることになった。