変化とともにあるための易経 第3回 易経が教える 時の本質と捉え方
生成・消滅の循環的世界を取り巻く「時」の存在
今回は、陰陽五行の説明で触れた「循環」に深くかかわる「時」の概念について考えていきたい。前回述べたように、陰陽五行は、陰陽と五行という2つの考え方が統合された思想である。陰陽では、陰と陽の対立する一対の組み合わせが生成・消滅を繰り返し、そこから万物が生じるとしている。五行では、木・火・土・金・水の五行が相互に影響し合い、「相生・相克」の中で、陰陽と同様に生成消滅を繰り返すとしている。このように、どちらの思想にも、個(部分)が有機的に結びついて統体(システム)を構成し、その中で個々が無限の変化を繰り返していくという世界観が基盤にある。ここで重要なのが時の存在である。生成消滅が繰り返されるということは、そこに時が存在すること、そして変化が時の流れとともに起きていることを意味している。時の流れは円環を描くように循環しており、そこで起こる変化は、永遠に止むことがない。ただし、円環といっても元のところに戻るのではない。なぜなら、時の経過の中に変化があるからである。このような変化と時の概念が、陰陽五行を理解するうえで重要である。易経は「変化の書」と呼ばれるように、変化を読む。変化の兆しを読むための教えでもある。循環という「時」の本質を正しく捉えてこそ、変化を読むことができ、先手を打って物事に取り組めるという考え方が底流にある。このことから易経には時に関わる記述が多数あり、「時の教え」「時の書物」とも呼ばれている。西洋における「時」の概念は、易経や陰陽五行の考え方とは好対照だ(図-1)。たとえばキリスト教文化では、神の天地創造によってこの世が始まり、最後の審判、つまりこの世の終わりに向かって時は流れていると説いているが、そこには時間は直進するという観念がある。そのため、物事には始まりと終わりが必ずあり、一度起きたことは、二度と起こらないと考えられている。これに対し、易経や陰陽五行では、循環する時の流れの中で、森羅万象の変化は永続的に繰り返されると考えるのである。
大事を成すタイミングは「時中」を見定めて決する
「時」を重視する易経で、ひときわ重要とされるのが「時中」という概念である。「中」は「丁度よい」「過不足がない」「片寄らない」などの意味を持つ語であり、時中とは、無限の時の流れの中の最適な「時」を意味している。また「的中」というように、「中」には「的を射抜く」という意味もある。「時中」を見定めるとは、時の流れの最適部を的に見立てると、そこに矢を放って中心を射抜くイメージであり、この「時」の最適部を正しく捉えて迷わず行動するということである。