科学哲学者が語る教養|知識は一側面にすぎない 教養を通じて、人は自分を「慎み」、他者を理解することを知る 村上 陽一郎氏 東京大学 名誉教授/国際基督教大学 名誉教授
「知の巨人」と賞される知識人の1人である村上陽一郎氏。
専門は科学・科学哲学だが、科学と社会の関わりを論じるだけでなく、『あらためて教養とは』『エリートと教養-ポストコロナの日本考』など、教養に関する著作も多い。
20世紀から知の最前線で論陣を張ってきた村上氏は、昨今の教養ブームをどのように見ているのか。
[取材・文]=村上 敬 [写真]=村上 陽一郎氏提供
教養の本質は「慎み」
「教養」と聞いたときに人々が思い浮かべるイメージは様々だろう。ある人は具体的な科目としてリベラルアーツ7科(文法、論理学、修辞学の人文系3科と、天文学、算術、幾何学、音楽の自然科学系4科)を思い浮かべるかもしれないし、ある人は具体的な科目ではなく雑学を含めたもっと広範囲な知識をイメージしたり、ある人は教養とは知識そのものではなく知識と向き合う姿勢のことだと考えているかもしれない。教養の正体は何なのか。科学史家・科学哲学者である東京大学名誉教授・国際基督教大学名誉教授の村上陽一郎氏に解説してもらった。
「日本でいう教養とヨーロッパのリベラルアーツは似ているようで違います。それは大正教養主義とよばれる大正時代の若者、特に男性社会の人々が教養として理解していた概念が、今の日本における教養の概念に尾を引いているからでしょう。大正教養主義のリーダーたちの思想の基礎は、18世紀から19世紀のドイツの哲学者、つまりカントやショーペンハウアー、ニーチェなどにありました。それからドストエフスキーやトルストイなどロシア高踏派の文芸が繰り返し論じられていました。これらカタカナ語で埋め尽くされている書物を一般の人々が読むことは難しく、教養は特権階級の自慰行為に近いものになりました。『教養がある』と言ったときに、何となく鼻持ちならない臭みのようなものを感じるのも、大正教養主義の影響です」
確かに日本で教養というと衒学的に響くことがある。では、ヨーロッパにおける教養とはどのようなものなのか。実はヨーロッパでも教養はリベラルアーツだけを指す概念ではないという。
「英語で教養という言葉に相当するものは何かと調べると、大抵の和英辞書でカルチャー(culture)と書いてあります。英語圏以外だと、フランスならキューチュール(culture)、ドイツならクルトューア(kultur)です。ただ、日本語で文化というときの意味領域が教養なのかというと、私はかなり違うのではないかと思います。
知識があることは教養があることの一部であることは確かです。ただ、それだけではなく、私は社会のなかで躾けられていることが教養の中核的な意味だと考えています。躾は『身が美しい』と書きます。日本語ではいささか古くなってしまいましたが、英語でいえばディセンシー(decency)、直訳すると『慎み』がそれに当たります。日本語の教養には我も我もとしゃしゃり出る自己主張の強さを感じますが、本来の教養にはある種の慎みが存在していると思うのです(図1)」
また、村上氏は教養について書いた著書の中で『規矩』という言葉を使っている。
「教養の概念には、ここから先は慎むべし、すなわち矩を越えることを自分に許さないという側面があり、その概念は英語圏のcultureのなかにもある程度存在しているのでないか。私はそう解釈しています」