巻頭インタビュー 私の人材教育論 企業活動の隅々まで 醸成されたクレドーが 業績を築く
Our Credo(我が信条)というコアバリューを掲げて64 年。
74 期連続増収という躍進を続ける米ジョンソン・エンド・ジョンソン。
人材育成をはじめ、ビジネスの現場における諸活動の基礎となっているクレドーとはどのようなものか。
1999 年の就任以来、マネジメントのトップとしてジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社の成長をリードしてきた松本晃社長にお話頂いた。
仕事の結果が次の飛躍の場を創る
── 松本社長は、伊藤忠商事からJ&Jへと移られています。率直に伺いますが、転職の決め手は何だったのですか?
松本晃
(※以下、松本とする。敬称略)
そもそも私は、若い頃から45歳を転機にしようと考えていました。ビジネスマンとして、30 歳から45 歳までの15年間は、結果を出して自分ではなく他人から認めてもらう時期です。がむしゃらに仕事に邁進すれは、必ず結果は残るはず。その結果が納得いくものであれば、他人も評価してくれると信じたのです。
── 意欲的な若者だったのですね。
松本
というより、私は日本の長期後払い制度は続かないだろうと思っていました。先輩方と異なり、我々の世代には年功的な処遇はもたないと理解していたのです。
── 当時からそうお考えになっていたわけですか。
松本
ええ。結果を出すことで、自ら45歳から新たなビジネスのフィールドを開拓しようと考えていたのです。そして実際、1992年に45歳で伊藤忠商事を退職しましたら、多数の会社からお話をいただきました。
── ではその中からなぜJ&Jをお選びになったのですか?
松本
理由は2つありました。1つは、私を「ぜひに」と引っ張ってくれたJ&Jのエチコンエンドサージェリーという事業部の会長だったロバート・クローセに惚れたからです。現在、彼はJ&Jを引退されましたが、今でもお付き合いさせていただいています。本当に素晴らしい、尊敬すべき人です。その彼が、私を欲しいと自ら来日し、直接J&Jに入社するよう口説いてくれたのです。
ダンボールを持って日本を訪れたチェアマン
── クローセ氏はなぜ、松本社長を望まれたとお考えですか?
松本
商社時代、私は医療機器を輸入していました。ですから、J&Jに入社する以前、クローセにとって私は、競合相手でした。
── 強敵だったわけですね。
松本
そうでしょうね。当時、私がいたセンチュリー・メディカルとJ&Jには、圧倒的な力の差がありました。ですからクローセは、J&Jが競争に勝つためには私を採用するのが一番早いと考えたのだと思います。
驚いたことに彼は、J&Jの製品をダンボールいっぱいに詰めて日本にやって来ました。消費者向けの当社の製品は、バンドエイドや綿棒といったこまごまとした生活用品ですから、金額にすれば大したことはない。ですが、子供たちにとってはうれしいプレゼントでした。さらにクローセは、家族全員を食事に招待してくれたのです。
日本の企業では、そんなことはなかなかないと思います。
── 運動会のようなイベントはあっても、一家を食事に招待するということは、日本企業の文化には少ないですね。
松本
クローセが外国人だというインパクトもあったのでしょうが、子供たちが大変喜んでね。子供たちまで私を口説き始めた(笑)。
この出来事は、J&Jが家族を大切にする会社であることを、私自身にも強烈に印象づけました。J&Jに限らずアメリカの会社では、会えば「元気か?」の次に必ず「家族は元気か?」と続きます。同僚も私の妻や子供たちの名前を覚えている。日本では、そういったことは比較的少ないですよね。