人材教育最前線 プロフェッショナル編 経験の積み重ねが人を磨き、成長させる
松田産業は、“地球資源の有効活用”という概念が注目されていなかった時代から、限りある資源を未来へと引き継いでいくための努力を続けている。同社は、地球資源を「提供する」食品、「活かす」貴金属、「守る」環境の3つの異なる事業を多角的に拡大、発展させてきた。独立採算を追求する一方で、異種混成型の事業形態を互いに共存させ、1951年の設立以来、右肩上がりの成長を続けているという。今回は、人事教育部取締役部長の片山雄司氏に、教育に対する想いを伺った。
小さな会社だけど、こんなものでは終わらない…
片山氏が松田産業に入社したのは、1976 年。オイルショックの影響で大学生の就職がきわめて難しかった頃だ。御多分に洩れず、片山氏の就職活動も大変だった。松田産業に足を運んだのは、食品業界で働きたいと希望していたからである。世界を股に掛けて、食材を買い付けるようなビジネスをやってみたいと思っていたのだ。
「最終面接まで残った松田産業は、ようやく学卒の定期採用をスタートさせた、まさに中小企業。その頃の本社は都心から外れた所にあって、田舎の会社だなぁというのが第一印象でした」
ところが、面接の印象は強烈だった。最終面接に残った学生を前に、社長が独演会を始めたのである。
「資源の乏しい日本だからこそ、貴重な資源を循環させて有効利用し、豊かな国づくりに貢献したい。そのために私は、この事業を始めた。今は小さな会社だけど、こんなものでは終わらない……」と、まさに息もつかず話したという。
「通常、面接というのは、学生の話を聞いて、その人となりを測るものですよね。ですから、ただもう驚いてしまって」。しかし、驚きはすぐに感動に変わった。
「情熱に打たれたのだと思います。話された内容にも感激しました。当時は、高度成長期から問題となっていた環境汚染がまさにピークでしてね。河川も東京湾もひどく汚れていました。食に関してもまだ“飽食の時代”というわけではなかった。ですから、社長の志に感銘を受けたわけです」
社長の若さにも魅力を感じた。2003年に亡くなった先代社長、松田洋氏。この時40歳である。
余計なことを考える暇はなかった
食品、貴金属、環境と、すでにこの当時から3本柱の事業展開が行われていた。念願かなって入社できたものの、片山氏が配属されたのは経理部だった。がっかり、である。
「半年も経つと食品部門の営業部に配属された同期に、『ちょっとアメリカにコーンの買い付けに行ってくるからさ』なんて言われるともう悔しくてね」と、片山氏は述懐した。
もっとも、がっかりした時期はすぐに過ぎてしまったようだ。
「今もそうですが当時も、社員が大勢いて借金が多い会社はだめだというのが当社の考え方。ですから若いうちから仕事を任されました。そうでなければ会社が動かないのです。余計なことを考える暇はなかったですね」
経験を重ね、決算書をつくれるようになると経理の楽しさ、面白さもわかってきたと片山氏。7 年めには課長代理になって経理課をまとめなければならない立場にもなった。経理で8 年を過ごした後、片山氏は社長室を経て人事部へと異動した。社長室では経営戦略を、人事部では組織運営を学ばせてもらったと片山氏は述懐する。