巻頭インタビュー私の人材教育論 究極の姿をコンセプトに掲げ 現状とのギャップを改善で埋めていく
21世紀初頭を「第二の創業期」と位置づけ、「Innovation into the Future」を基本テーマとしたビジョンを2002 年より掲げ、新たな企業像の実現を目指し、グローバル規模で変革に取り組んできたトヨタ自動車。
生産・販売台数において日本、そして世界の市場で第1 位となった現在も、さらなる成長の持続を目指す。
その挑戦を支えるのが世界中で活躍するトヨタの人材である。
創業以来続く「モノづくり」と「人づくり」の視点を受け継ぎ、トヨタの国内、海外市場での躍進と、その成長を支えていく人材の育成に力を注いできた張富士夫会長に話を伺った。
ケンタッキー工場で築き上げたトヨタ式現地化のモデル
── トヨタは2007年上半期に販売台数でGMを抜き、自動車メーカーとして世界ナンバーワンの座につきました。名実ともにグローバル時代のエクセレント・カンパニーとなられたことには大きな意味がありますね。これまでの急速な海外展開も成功要因の1つだと思いますが、グローバルな人材育成はどのように進めてこられたのでしょうか。
張
最初にアメリカで現地生産を始めたのが1980年代初めですから、当社はもう四半世紀にわたって海外で現地化を推し進めてきたわけです。私も80年代半ばから10年近くアメリカで工場を任され、日本に戻ってからちょうど10年が過ぎました。その間に多くの国や地域でトヨタグループに新しい人材が加わり、今では生産拠点が26の国・地域に52カ所、デザイン拠点と研究開発拠点は7カ所を展開しています。
海外拠点をつくるたびに、私たちは現地の文化や慣習を学び、従業員たちに自動車のつくり方、その根底にあるトヨタの哲学や思想を伝えるという活動を続けてきました。海外の現地生産では、生まれ育った環境も価値観も違う大勢の人たちにトヨタのモノづくりを教えていくことになります。特に欧米は自動車産業の大先輩ですから、後輩である日本の会社に教えることがあるのか、教えても従ってくれるだろうかという心配は常にありました。
同じ現場教育でも、日本と海外ではまるで違います。日本では同じトヨタ社内にいる日本人同士ですから、以心伝心で伝わることもずいぶんあります。それが海外になるとなかなか通用しません。私はトヨタ自工の入社6年めに生産管理部へ配属され、当時常務だった大野耐一さんや鈴村喜久男さんからトヨタの生産方式を厳しく叩き込まれました。来る日も来る日も現場で「この馬鹿やろう!」と怒鳴られていましたよ(笑)。当時は大野さんの直弟子と言われる社員が10 人から15 人ほどいて、その人たちがみっちり仕込まれてから各工場にトヨタのモノづくりを広めていきました。そうやって少しずつトヨタ生産方式としてノウハウが理論化されてきたわけです。
── 1988年に操業を開始したケンタッキー工場(TMMK)は、張会長が工場建設から手がけられました。米国企業との合弁でなく、トヨタ初の単独による現地生産でしたから、相当なご苦労があったかと思いますが。
張
製造業のありがたい点は、やり方が正しければ、いい製品ができることです。その実績が表れてくれば、働く人たちは納得してトヨタのやり方に従ってくれるようになります。私が立ち上げたケンタッキー工場でも、初めは試行錯誤を繰り返しましたが、そのうちに「なるほど、この日本人たちが言う通りにつくれば、少ない人数でもムダなくいい製品ができる」と少しずつ理解されていき、良い方向に回り出しました。
操業開始の2年後には、新車の満足度調査で、私たちの工場が全米の自動車工場の中で第1位になりました。「素人が集まって、あれだけ品質のいい自動車をよくつくれるものだ」「新参者なのに、ビッグスリーの工場に比べても遜色がない」と評価され、従業員たちも「自分たちのやり方は間違っていない」とかなり自信を深めたようです。
── 自動車産業では歴史と伝統があるアメリカで、トヨタ流のモノづくりを浸透させたわけですから、現地化を進めるうえで何か秘訣もあったのでしょうね。
張
いくら社員でも、これからトヨタで働くのだからと、何から何まで頭ごなしに教え込むわけにはいきません。そこは日本国内と違って、相手の文化や習慣を尊重するマネジメントが必要になります。ケンタッキー工場をスタートする時、私は従業員たちにこう説明しました。
「自動車づくりでは、トヨタのノウハウをすべて教えます。製造については我々が師匠です。反対にアメリカの人事、経理、法務、広報などについては、あなたたちが先生です。アメリカの文化や習慣を100%尊重しますから、いろいろ教えてください」
このスタンスは、その後の海外展開にも受け継がれています。ケンタッキー工場で育った社員たちがヨーロッパやアジアでも同じようなマネジメントを広めてくれたからです。
── 社内をトヨタ一色にするのではなく、現地の文化や習慣をうまく融合させていく姿勢も強く打ち出した、と。ケンタッキー工場が1つのモデルになったわけですね。
張
私が掲げた会社方針は4つあって、その4番めはまさしく「日米双方の文化から良いところを学び取って、新しい企業文化をつくりあげる」というものでした。
日本で会社方針といえば、どこか建前やお飾りのようですが、アメリカのように多様な価値観をもつ人たちの集まった組織では、トップの意思表明はきわめて重要な意味をもちます。もしトップが短期的な利益を重視すると表明すれば、業績が落ち込んだ時に自分たちはレイオフやクビ切りの対象になりかねないと思うでしょう。
私は「この会社は人を大切にします」と早々に宣言しました。トヨタ生産方式では、働く人たちが最も大切な財産だと考えます、と説明して、英語で「the most important asset」と表現しました。それと同時に、会社運営や人事施策について従業員から意見を集め、制度などに反映する仕組みをつくりました。「日本から来た経営者は偉そうなことばかり言って何もやってくれない」と思えば、反発したくなるのも当然です。言ったことを実行していくことが、信頼関係を築くうえで一番の基礎ですから。