歴史に学ぶ 女性活躍 最終回 協力して江戸を戦火から救った嫁姑 天璋院篤姫と皇女和宮
明治維新から150年という年に、最終回で取り上げるべき女性たちといえば、篤姫(あつひめ)と和宮である。のちに倒幕勢力となる薩摩から徳川に嫁いだ篤姫。公武合体のため朝廷から幕府へ降嫁させられた和宮。共に徳川家討伐の危機を、どういう才覚と態度をもって乗り越えたのか。
篤姫(あつひめ) 、将軍家定に嫁ぐ
薩摩藩主島津家の分家の娘於一(おかつ)は、藩主島津斉彬(なりあきら)の養女 (幕府への届け出は実子) になって篤姫(あつひめ)(諱(いみな)は敬子(すみこ))と改名、さらに右大臣近衛忠煕(このえただひろ)の養女となり、数え22歳の安政3年(1856)12月、13代将軍徳川家定(いえさだ)(33歳)に嫁いだ。家定はすでに正室を2人失くしており、篤姫は 3人目の御台所(みだいどころ)だった。
家定自身も病弱で、幕政は老中阿部正弘らが主導しており、実子もないため、世継ぎ問題が喫緊の課題だった。候補は、大老井伊直弼(いいなおすけ)らが推す紀州藩主徳川慶福(よしとみ)と、島津斉彬や水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が推す一橋慶喜(よしのぶ)の両名で、斉彬は大奥工作のために篤姫を送り込んだのだった。ちなみに、斉彬と篤姫との連絡役に選ばれたのが西郷吉之助、後の隆盛である。
さいわい夫婦仲は睦まじく、一部で篤姫懐妊も期待されたが、家定の体調は悪化の一途をたどり、子ができないまま後継問題は激化した。
斉彬の意を受けて篤姫は家定に慶喜を世継に決めるよう説得しようとしたが、大の水戸嫌いの家定の生母本寿院(ほんじゅいん)が、慶喜を将軍にするなら自害するとまで言い出し、斉彬ら一橋派の目論見と篤姫の努力が実ることはなかった。
安政5年7月、家定死去。篤姫はわずか1年半余の結婚生活で寡婦となり、落飾して天璋院(てんしょういん)と号した。家定の死のわずか10日後には頼みの斉彬まで急死してしまったから、その悲嘆はいかばかりであったろう。
だが、彼女にはまだ果たさなくてはならない責任が残っていた。家茂(いえもち)と改名して第14代将軍となったのはまだ13歳の少年。黒船来航以来、諸外国の脅威にさらされ、開国か攘夷かで揺れに揺れ、日米修好通商条約が結ばれ、安政の大獄が始まった。尊王の世情に押され、幕府にとって公武合体しか道はなくなってきている。新将軍を支え、徳川家の大奥を束ねていかねばならない立場なのだ。
皇女和宮の降嫁
和宮は孝明天皇の異母妹で、6歳のとき、天皇の勅命で有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約が内定していたから、降嫁の話はまさに青天の霹靂だった。和宮自身、「異人」のいる関東へ行くのを嫌がり、重ねて強く固辞したが、天皇は苦悩しつつも幕府側の強い要請をはねつけることはできなかった。
泣く泣く受け入れた和宮側からの降嫁の条件は、大奥へ入っても万事、御所風のしきたりを厳守すること、御所の女官をお側付きとして常駐させること、亡き父帝仁孝天皇の回忌毎に上洛させること、等々だったが、孝明天皇はさらに、降嫁は公武の熟慮の上での決定と天下に周知させること、老中ら幕閣が交代しても攘夷の誓約は尊守すること、外国との交易によって国民生活が窮乏しないよう対策を講じることを条件に加えた。
これから見ても降嫁はあくまで攘夷を通そうとする朝廷と、開国もやむなしとする幕府のぎりぎりのせめぎあいであったことがよくわかる。文久元年(1861)、和宮は内親王宣下を受けて親子(ちかこ)内親王となり、江戸へ下向。世間では和宮を人質に取るのが幕府の目的だという噂が立ったため、危機感を抱いた天皇は岩倉具視らを同行させて老中に真偽をただすよう命じ、あらためて和宮の意向が適うようにせよと命じた。
その年の暮れ、和宮主従は江戸城本丸大奥に入った。家茂は先の噂を否定するため岩倉らの要求に屈して二心ない旨の誓紙まで書かされた。