歴史に学ぶ 女性活躍 第5回 ガメツイ悪妻か、自立した女か 日野富子
今回は、話題の「応仁の乱」の室町時代から、日野富子を取
り上げる。「悪女」といわれるが、本当はどうだったのか。また、
事実上の権力を握ることができたのは、どういう人の影響や、
能力がなせる業だったのか。実は「女性活躍時代」ともいえる
当時の時勢とともに見ていこう。
今、応仁の乱がにわかに脚光を浴びている。応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで足かけ11年にわたり京を焼き尽くした大乱で、室町幕府の衰退を招き、戦国時代へとなだれ込むことになった大事件なのに、これがよくわからない。どういう事情で勃発したのか、なぜ長引いたのか、結果誰が勝って誰が負けたのか、判然としないのである。わからないから論じようがない、したがって人気もない、という負のループだったのが、呉座勇一(ござゆういち)氏の『応仁の乱』(中公新書)の大ヒットをきっかけに、関連本も次々に出ている。
その応仁の乱の立役者のひとりが8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の御台所(みだいどころ)、日野富子である。長期の戦乱で公武が疲弊し庶民も苦しみあえいでいるのに、莫大な財を集めに集め、敵味方関係なく高利で貸しつけてしこたま儲けたガメツイ女。江戸時代以後の戯作では「守銭奴(しゅせんど)」とまで悪評されたが、はたして真実だったのか。
御台所から次代将軍生母に
富子は16歳で義政に嫁いだ。日野家は代々将軍家の正室を出す家柄だが、義政にはすでに愛妾とその子らが2人いた(いずれも女子)。富子が最初に生んだ第一子も女子で、生後数日で死んでしまい、その後富子にも側妾にも男子ができなかったため、義政は出家していた異母弟を還俗させて義視(よしみ)と名乗らせ、先々もしも実子ができても絶対にすげ替えはしないと約束して後継者に定めた。
ところがその翌年、富子が婚姻10年にして嫡男(のちの義尚(よしひさ))を生んだのである。応仁の乱は、彼女が義尚を将軍位に就けようと山名宗全(やまなそうぜん)(持豊(もちとよ))と結託し、義視を擁する管領の細川勝元(ほそかわかつもと)の排斥を画策したのが元凶、とされてきたのだが、近年の研究では否定する声が多い。少なくとも嫡男を生んだ富子の立場は安定した。わが子を正当な後継ぎにと望むのは母親の自然な気持ちである。遠因にはなったであろうが「富子悪女説」は彼女の死後に書かれた軍記『応仁記』による虚構だというのである。
その頃の義政はまだ将軍としてやる気はあったが、次第に政治に対する熱意も責任感も失い、酒と趣味に耽溺するようになった。
その原因の一端は、富子との深刻な不和にあった。富子と後土御門(ごつちみかど)天皇のスキャンダルである。富子としてはただ懇切に天皇家の人々の面倒をみただけだったのに、義政は気を腐らせ、夫婦仲は一挙に険悪化、別居状態になってしまったのである。
享楽に溺れる義政
乱の最中の文明5年(1473)、山名宗全と細川勝元があいついで没し、義尚は9歳で9代将軍の座に就いた。まだ若年のため、政務に関しては、大事は義政(当時38歳)、小事は富子(34歳)が分担しておこなうことになり、富子がいよいよ政治の表舞台に登場することになった。
室町御所を出た義政は大豪邸を建てて、やれ猿楽だ花見だと遊び呆け、金無垢の箸を愛用するほど享楽的な暮らしを楽しんだ。長引く戦乱に人々は上も下も困窮しきっていたのに、である。庶民は焼け出されて家財を失い、田畑を焼かれて青息吐息。公卿たちでさえ、寒さしのぎに蚊帳を着たり、短冊や色紙を書いて米に替えて糊口をしのぎ、ついに町民相手の手習い師匠にまで落ちぶれているありさまなのに、義政は自分の無力を自嘲しつつ、捨てばちな心境であろうが、やがて東山の地に山荘(のちの慈恩寺(じおんじ)、通称銀閣寺(ぎんかくじ))を建て、そこに引きこもってしまった。