連載 人材教育最前線 プロフェッショナル編 折れない気持ちが困難を克服し仕事を楽しくする
化粧品業界は不況知らずだという。とはいえ、メーカー各社の競争は厳しい。基礎化粧品やメークアップ化粧品、ボディ用商品に至るまで多岐にわたる。国内メーカーの中でいち早く海外進出を実現させたコーセー。成熟市場の中で、業界の平均を上回る業績で推移しているというコーセーグループの採用と教育を一手に引き受けているのが、人事部課長の村松勉氏である。従来の価値観が通用しなくなりつつある新時代の若い人材に対し、かつて営業担当者だった村松氏が伝えたい想いとは何か――。厳しい営業の第一線で活躍してきた経歴を持つ、教育担当者ならではの人づくりへの想いを伺った。
win-winが信頼を高め仕事の結果に結びつく
小学校教諭になりたいという夢を捨てきれず、教員養成所の試験を受験した村松勉氏。コーセーとの出会いは、教員養成所試験不合格がきっかけとなった。
村松氏は、「頭を切り替えて、営業の仕事に就くことにしました」と当時を振り返り、笑った。
村松氏が入社したのは1983年。配属はコーセー化粧品販売(当時はコーセー商事)の横浜営業所だった。入社1年目こそ営業目標を達成することができない悔しさに仕事から逃げ出したいと思ったこともあったが、努力が結果へ結びつくようになった2年目からは仕事が楽しくなったという。
当時担当していたのは、化粧品専門店。新製品の受注活動を中心に、販売手法、販促企画、商品陳列などを提供・提案する業務だった。
当時、コーセーの売上高およびシェアは、国内第3位。大手化粧品会社2社に大きく水をあけられる形でコーセーが続いていた。
特に1980年代は、大手化粧品会社のCMに登場するタレントや楽曲が常に話題になっていた時代である。そんな中でコーセーの少ないテレビCMでは、指名買いも少ない。コーセーの商品を選んでもらうには、専門店の経営者にコーセーのファンになってもらい、お客様に薦めてもらうしかない。店主と一緒にシャッターを開け、シャッターを閉めるといった“夜討ち朝駆け”は、コーセーの営業担当にとっては当然の姿勢だったと述懐する。
しかし、村松氏はその泥臭い営業の手法を、むしろ楽しんでいたようだ。熱意は、必ず相手に伝わる。少しずつでも結果が出ると、それがwin-winの関係となり、互いの信頼関係はますます高まっていく。そしてそれが結果となる。
同社では、毎年全国の営業成績上位者の表彰が行われ、複数年度にわたって上位になった者は海外研修に参加できる。村松氏は入社2年目にして表彰され、3年目には海外研修に参加。サンフランシスコ、ロサンゼルス、ハワイなどを視察した。
ともに変わることで未来への希望を共有する
横浜営業所で専門店を中心とした営業を行っていた村松氏が、百貨店専門の東京中央営業所に異動になったのは、1989年。30歳の時だった。青天の霹靂だったと本人はいう。
1980年代は、海外ブランドが日本に押し寄せてきた時代である。化粧品もしかり。消費者は百貨店で海外のブランド化粧品を購入していた。