連載 人材教育最前線 プロフェッショナル編 異文化で働く体験を通して自らを磨き、組織を強くする
日本を核にアメリカ、ヨーロッパ、アジア、中国に70カ所を超える拠点を中心に事業を展開しているアルプス電気グループ。2010年3月期の海外生産売上高は、71%を占めている。同社は、多くの日本人が海外現地法人へ出向する一方で、海外現地法人の社員が日本の拠点に勤務する研修制度の導入も進んでいるのが特徴。グローバルな人材活用に注力した教育が行われている。そうした同社で10年以上にわたり、人材開発や人事といった人づくりにまつわる部署で活躍してきたアルプス電気松山慎二人事部長に、人材育成に対する想いを伺った。
人を育てることは個人を守ること
アルプス電気人事部長の松山慎二氏は、6年間、従業員代表組織(労働委員会)の専従役員を務めていた時期以外は、入社以来ずっと総務人事の仕事に携わってきた。
他部門を経験しなかったのは、人材開発の仕事に携わりたいと自らが望んだからだという。もっとも、人材開発の仕事に就きたいと思ったきっかけは、入社後に新潟事業部の総務課に配属されたことにある。
「採用と教育の担当でした。入社2年目からは新入社員向けの研修トレーナーもやりましたし、20代の後半からは入社3年目の社員研修のファシリテーター役もやりました」
ビジネススクールで訓練を受け、トレーナーとして実施した創造性開発研修は、数十回に及ぶそうだ。トレーナーの仕事は嫌いではなかったし、研修を企画し、実施する中で出会う講師や専門家の話も刺激的だった。
本来はシャイで人見知りだと笑う松山氏だが、学生時代から教育に対する関心は高かった。「野球部に所属していた高校時代は、高校野球の監督になりたいという夢を持っていたし、大学生の時にはボーイスカウトのリーダーとして小学生を指導していました。教職課程もとりましたから、教育に対する関心は、学生時代から持っていたのかもしれません」
企業ビジョンの「個の尊重」という言葉も、人材開発の仕事への情熱を後押ししてくれたことの1つだが、人材開発への想いを決定づけたのは、1989年から6年間にわたる労働委員会の専従役員としての経験があったからだと松山氏は振り返った。
世界市場を視野にすでに1960年代から海外展開に着手したアルプス電気の海外生産体制は、1980年代になると世界各国に4つのメインとなる生産拠点を確立。松山氏が入社した1981年当時は業績も右肩上がりだったが、1985年のプラザ合意以降は急激な円高により、経営は厳しくなっていく。1992年下期には業績の悪化からついに希望退職募集を行った。この時、労働委員会の事務局長として会社側と対峙しなければならなかったのが、松山氏である。退職勧奨を受けた社員と会社の板挟みとなり、つらい想いをすることも多かったという。
「会社はつぶれても個人はつぶれてはならない。だから、個人が強くならなくてはいけないのだということを、強く感じました。その意味で、人を育てることは個人を守ること。人材教育は、社員にとって利益となると確信したのです」
リストラを断行したアルプス電気は、1993年下期から構造改革に着手する。企業再建をめざし、管理者教育の見直しをスタートさせた。こうした流れの中で、1995年、松山氏は本社人材開発グループマネージャーに就任した。37歳だった。
自律した個人を創ることで会社を強くする
自らも希望して人材開発の仕事に就いた松山氏だったが、理想と現実のギャップが埋まらず、当時はかなり苦しんだと話す。ITやグローバルな企業間競争の進展から求められる人材像をいかにつくっていけばいいのか。海外展開の加速化に伴う人材づくりに加え、管理職の強化を図るための研修も実施したい。しかし、業績の低迷から教育費の削減を余儀なくされる現状。