Column 江戸時代の商人道に学ぶ 近江商人、伊勢商人、大坂商人、富山商人の心得とは
日本企業には、伝統的にビジネスと倫理観とを両立させてきた会社が多い。
例えば、パナソニックの創業者、松下幸之助は、昭和4 年に次のような綱領を制定している。
「営利と社会正義の調和に念慮し 国家産業の発達を図り 社会生活の改善と向上を期す」。
この頃の松下電器製作所は従業員300人程度だったが、すでに社会貢献という高い理想を掲げていた。実はこの話にはちょっとしたいきさつがある。
当時、事業が成功しつつあった同社の税金申告額は、年々増える一方だった。
不審に思った税務署はある日、工場を調べに行くと連絡をよこした。
「正直すぎて損をしているのではないか」。二晩眠らず悩みぬいた幸之助は、こんな結論を出した。
「金は全て国からの預かり物にすぎない。必要なだけ取ってもらえばいいのだ」と。
儲けと社会貢献。一見、二律背反するようだが、「利益ばかり追求せず、正しく商売を行って社会に奉仕すべし」と社訓に謳う企業は少なくない。
そうすれば結果的に取引先や従業員、会社が豊かになる、と彼らは説く。
その哲学の源流は、江戸期に活躍した近江商人や伊勢商人、富山商人らの精神にある。
そこでこのコラムでは、彼らが活躍した江戸時代にさかのぼり、歴史をひも解いてみることにしたい。
近江商人全国展開を可能にした三方よし
江戸期~明治期、日本全国に勢力を広げたのが近江商人だ。それぞれの出身地から高島・八幡商人、日野商人、湖東商人などに大別される。近江の国(現在の滋賀県)を本拠地とし、果敢に他国に出向いては行商、出店した。中には、南は遠く安南(ベトナム)、北は蝦夷(北海道)までネットワークを広げた者もいる。
近江商人が登場した江戸初期は、各藩で城下町が生まれ、市場が形成された時期にあたる。しかも、近江の国は東海道、中山道、北国街道、若狭街道などが交差する交通の要所だ。行商でビジネスを興すにはもってこいの立地だった。
彼らの中には上方(大坂・京)の加工品を地方で売り歩き、その原材料となる地方物産を持ち帰って売りさばく者が多かった。旅先で一定のお得意様を確保すると、その地に出店しては拠点を増やしていった。財をなした豪商の子孫から、伊藤忠商事や西川産業、大丸など後世の大企業に発展した例も多い。
とはいえ、よそ者が見知らぬ土地で信用を獲得するのは並大抵のことではなかった。やがて彼らは売り先の利益を第一に重んじ、地域に貢献することが信頼への道、すなわち商売の心得と考えるようになった。これが有名な「売り手よし、買い手よし、世間よし」、すなわち近江商人の「三方よし」の精神である。
三方よしの教えを最初に書き著したのは、麻布商の中村治兵衛宗そうがん岸だ。「他国へ行商するも総て我事のみと思わず、其の国一切の人を大切にして、私利を貪ること勿れ」(『中村治兵衛宗岸の家訓』)。一切の人、つまり得意先もそうでない人も大切にし、自分の利益だけを追求するな、という教えである。
ふとんで有名な西川産業の西川家二代目、西川甚五郎は染色法を研究し、萌黄色の麻に紅布を縁にあしらった蚊帳を考案、大流行させた人物だ。彼もまた「いつも薄い口銭(利潤)を心がけ」「何事であれ世間の害になることをしてはならない」などと家訓で戒めた。
近江商人はCSRにも積極的だった。たとえば、中井源左衛門家は天保の飢饉の時、中でも被害のひどかった仙台で、多額の救済金や米を施している。蝦夷で繁栄を築いた藤野四郎兵衛は、同じく天保の大飢饉の折、米の施し、あるいは原価販売を行って人びとを救った。またこの際、四郎兵衛は寺院仏堂などの改修工事で窮民を雇い入れ、その家族に食事を分け与えている。いずれも近江商人の哲学「陰徳善事」(人知れず善い行いをせよ)に基づくふるまいだ。
人材育成についても、近江商人は独自の工夫を行っていた。丁稚を雇い入れる際は、地縁、血縁のある子供の中から機転がきき、利発な「間に合う」子を選ぶ。家内雑事をさせながら奉公させ、その後は、手代、番頭、別家へと昇進させていった。各地の出店先では、主人も奉公人もひとつ屋根の下で家族同然の暮らしをしたという。団結心を養い、仕事を覚えさせるためだ。
赴任先から近江に帰る「登り」は数年ごとに認められ、その折、勤務成績によって昇進について検討が行われた。商売の才覚に長けた「間に合う」者は、登りの回数を重ねるごとに出世したが、勤務不良の者は解雇された。「在所登り制度」と呼ぶこの制度は、今日の能力主義とよく似た仕組みといえる。