人は磨けば必ず光る―― 人づくりは企業の使命
外食産業の市場規模は、約30兆円ま
で膨らんだ1997年をピークに減少し、
現在は20兆円台前半。今後も市場規
模は拡大しないといわれている一方
で、店舗数は増加傾向にある。厳し
い経営環境の中、社員だけでなくク
ルーの教育にも尽力したいと話すの
は、ジョナサンの人事部部長・織部
始氏である。現在、ジョナサンの社
員数は750名、そしてパートタイムで
働くクルーは1万3000名を超える。
織部氏自身、かつては店長として現
場の第一線で社員やクルーの育成に
日々取り組んできた。「“人づくり”な
しには企業は成り立たない」と話す
織部氏に、教育に対する想いを伺った。
会社がつくるのは商品ではなく“人”
ジョナサンが誕生したのは、1980年。ファミリーレストランの「すかいらーく」が、新しいコンセプトの都市型レストランとして、新ブランド「ジョナサン」の展開を決めたのである。1980年代は、女性の社会進出や好景気を背景に、外食産業が拡大を続けたまさにファミリーレストランの黄金期。そうした時代の中、当時高校生だった織部始氏がすかいらーくでアルバイトをしたのも、ごく自然な流れだった。
しかし、この体験が織部氏の未来を決めることになる。跡を継いでもらいたいという大工の父の想いは知っていたものの、織部氏はすかいらーくに就職したい、そう思うようになったからだ。「外食産業以外にも、父の手伝いはもちろん、いろいろなアルバイトをしました。でも、すかいらーくの仕事が一番面白かった。課題や目標を共有して仲間と力を合わせて達成する喜びや人に感謝される感動が、外食産業の仕事にはあり、高校生の私にも感じるものがあったからです。それに、室内で働けるのも嬉しかった」
高校卒業と同時に「すかいらーくアカデミー」に入学したのは、織部氏の希望を聞いたすかいらーくのスーパーバイザーに勧められたからだ。すかいらーくアカデミーとはちょうどその年、すかいらーくが外食産業の発展をめざし、フードビジネスのリーダーを養成するために開いた学校である。そこには、外食産業の地位向上を願う、すかいらーく創業者の横川端氏の想いがあった。
同校設立のもう一つの目的は、人材の確保である。1987年、日本はバブル景気に沸いていた。外食産業は常に人手不足。ここで学んだ生徒なら、必ず外食産業で即戦力として働いてくれるというのが狙いだ。「すかいらーくアカデミーは完全全寮制で、期間は1年。社会人教育を中心に、ルールやマナーを重視し、調理技術はもちろん、店舗経営の習得まで、カリキュラムは充実していました。哲学や古代史といった授業まで(笑)。外部から講師を招くこともあり、1年間に多くのことを学ばせてもらいましたね」
入学金は必要だったが、授業料や寮費は無料。織部氏のようにすかいらーくでアルバイトをしていた人もいたが、新聞などで情報を得て応募してきた人もいた。全国から出身地も生い立ちもさまざまな19~21歳の男性32名が集まり、晴れの第1期生となった。「授業についていくのも大変でしたが、何が一番大変だったかといえば、全寮制であるということです。規則正しい生活を強いられたのが辛かった。5名が脱落し、卒業できたのは27名。特に徳育の授業を担当したすかいらーくの監査役(当時)の下田喜造先生は厳しい方だった。でも、下田先生のおかげで、私は生まれ変わることができたような気がしています。徹底的に性根を叩き直してもらいましたから」
どうやら織部氏、学生時代は“やんちゃ”だったらしい。素直になれない生徒一人ひとりと、下田先生は真剣に向き合い、本気で叱ってくれた。学生たちを自宅に招き、食卓を囲んで真摯に語り合ったことも珍しくなかったという。下田先生との交流は、卒業してからも続いた。「下田先生には叱られてばかりでした。ある時は『お前の会社は何をつくって、何を売っているのだ』という問いに『料理です』と答えて、ひどく怒られた。『会社がつくっているのは人』だと、先生は教えてくれたんです」
この時の教えは当時十代だった織部氏の心に刻み込まれ、今日の氏をつくる言葉となった。