専門教育+ 経験学習による 新しい教育体系の 構築を
バブル崩壊以降、日本企業が推し進めてきた個人主義に限界がきている──
この問題に直面している今、集団の力の見直しが進み、それを牽引できる“戦略ミドル”の育成が急務である。
これまでの日本の企業教育の流れと課題、そしてこれからの教育体系をいかに築いていくべきかを、
文京学院大学の谷内篤博教授に聞いた。
日本の企業内教育の歩み
企業を取り巻く環境の変化や、働く側の意識の変化などから、企業内教育のあり方は大きな変革を迫られている。本稿では、まずは我が国の企業内教育の発展段階を振り返り、現在の課題を明確にしたうえで、これからの企業内教育のあり方と、それを実現するための教育体系について、お話しをしたい。
企業内教育のあり方は、いくつかの段階を経て移り変わってきた。その正確な時期については諸説があるので、ここでの区分は1つの目安と考えていただきたい。
まず、戦後復興期における企業内教育は、いわばアメリカの見よう見まねの時期であった。TWI(TrainingWithin Industry)やMTP(ManagementTraining Program)など、教育技法が次々に紹介され、導入されていった。それらは企業ごとの個別のニーズに合っていないという欠点もあったが、何をどう教育すればよいかがわからない当時の日本企業にとって、汎用的なプログラムは手っ取り早くやってみるには非常に都合がよかった。
次に、1960年~70年代前半の高度成長期が区切りになるだろう。自動車や電機に代表される成長産業が育つ一方で、若年労働力の不足や技術革新などにより、量から質への転換を余儀なくされていた。そこで、働き方を変えていく必要がありMBO(Management By Objectives/目標管理)が盛んに取り入れられた。また、技術革新の進展に伴う技術者の能力開発が積極的に行われ、創造性開発の手法としてKJ法、NM法などが活用されたのもこの頃。
1973年~85年頃までは、オイルショック以降、企業体質を改善する必要があった。減量経営下の教育では、コストカッティング、合理化へ向けたQC(Quality Control)教育が盛んで、ZD(Zero Defect)運動も活発化していた。
そしてプラザ合意以降、1986年~90年までは、急激な円高を受けて国際化が進んだ時代で、国際要員の育成が急務となった。また、アメリカの戦略論や組織文化論、企業文化の影響を受けたのがこの頃。『エクセレント・カンパニー』(Peters,T.J.andWaterman,R.H.Jr)が翻訳されて、企業文化が大ブームとなったのもこの頃。戦略実現に向けた企業文化の改善に多くの企業が取り組んだが、実際にはC(I Corporate Identity)や職場の活性化運動と混同され、その教育効果はあまり上がらなかったのが実情のようだ。
行き過ぎた個から、組織力を発揮する集団へ
バブル崩壊後の10年、ここで成果主義が導入されたことが、その後の企業内教育のあり方に大きな影響を与えた。成果主義が導入される前までは、企業内教育の責任は企業にあった。「管理職育成」「階層別」という大きな2つの教育を、全体の底上げを目的に、企業が責任を持って実施していたのだ。
しかし、成果主義の導入とともに個人主体の考え方、自律した個が叫ばれ、教育やキャリアについての責任は個人にあるということになった。
同じ時期に、個人の仕事観が大きく変わったことも大きい。それまでは、個人と組織は帰属意識で結ばれ、直接統合されていた。しかし、若年層の社会環境の変化に伴い個人の仕事観が変わっていく中で、コミットメントの対象が組織ではなく仕事になり、組織への帰属意識は薄れた(図表1)。このタイミングと企業側の成果主義の導入が重なり、個人主義が一気に進んだのがこの時期である。成果主義の弊害として、自律した個に行き過ぎたこと。それが大きな問題である。イノベーションは、集団でのやり取りの中からしか、生まれない。そこに改めて気づいた企業は、現在、行き過ぎた個人主義から、集団の力を重視する方向に、揺り戻しがきている状況だといえるだろう。2010年、トヨタ自動車が20年振りに係長職を復活させたことは、1つの象徴的な出来事といえるのではないだろうか?