連載 「偶然」からキャリアをつくる 第4 回 「素睛らしい偶然が 近づきやすいように努力する」
「Planned Happenstance 理論」の提唱者であるクランボルツ教授によると、「クライエントに対して、予期せぬ出来事や偶然のチャンスについて話をするキャリアカウンセラーはほとんどいない」。確かに、一般的なキャリアカウンセラーのイメージとは、クライエントに対してこれまで職業生活を振り返させ、スキルの棚卸しをさせ、目標を立てさせ、それに向けての行動計画を立てさせるといったもの。そこに「偶然」が入り込む余地はない。しかし、伊藤忠商事キャリアカウンセリング室長の浅川正健氏は、自らの経験も含めて、「偶然」との出会いを重視するカウンセラー。彼自身の「Planned Happenstance 的」なキャリアを追いながら、彼が“素晴らしい偶然”とどのように向き合ってきたかを見てみたい。
海外に憧れた大学時代~ 商社マンヘ
オイルトレーダーとして世界を相手に仕事をし、その後もキャリアカウンセラーとして多くの人と接している浅川氏には、活動的で社交的なタイプというイメージがあるが、幼いころは[姉と一緒に遊ぶおとなしい少年だった](浅川氏)。それが次第に、外の世界、特に海外へと目が向き始め、大学では国際経済を勉強するクラブに所属。「勉強するのが半分、コンパやダンスパーティをするのが半分」(浅川氏)のクラブだったが、英語の勉強は熱心にしていたという。夜、語学学校に通ったり、休みには1人で海外旅行をするなど、外国への憧れを募らせていった。そして、就職活動の時期を迎えた浅川氏は、「貿易を通じて日本や諸外国の役に立ちたい」と考え、商社に就職することを決意する。なかでも、財閥系でない伊藤忠商事に魅力を感じ、1973 年に入社。「若い社員にもやりたいことをやらせてくれる会社だと感じた」(浅川氏)。
入社後3年目にしてロンドン駐在員となった浅川氏は、17 年間にわたって、石油を中心に原子力などのエネルギー担当の商社マンとして活躍することとなる。ロンドンに3 年駐在した後、日本に戻り船舶燃料のビジネスに従事。1984 年からはメルボルン4年、シドニー2年と、30 代のほとんどをオーストラリアで過ごした。
オーストラリアで学んだこと
オーストラリアには合計で6 年間駐在していたが、その問に「多くのことを勉強した」と浅川氏は語る。シェルやBP といった世界的なオイルカンパニーの社員との付き合いは仕事だけでなくプライベートな部分にも及び、「一緒に仕事し、一緒に遊んだ」(浅川氏)。また、近所の人たちとの交流も大事にし、ホームパーティやバザーなどを積極的に行って、「多くの人たちに『日本』を知ってもらいたかった」(浅川氏)。さらに現地の人だちとの付き合いだけでなく、「日本人会」の活動も熱心に行い、「日本人会で初めてソフトボール大会を行った。そのころのメンバーとは20 年以上経つたいまでも付き合いがある」(浅川氏) と言う。
こうしてオーストラリアでの仕事や生活に慣れてくるにつれ、現地の人たちや各国から派遣されてきている駐在員の働き方・仕事に対する考え方が日本人のそれと大きく異なることに浅川氏は気づき始める。ごく一部のエリートを除けば、多くのビジネスマンは「仕事」よりも「家族」を大切にする。「仕事を取るか、家族を取るか」と問われれば、当たり前のように「家族」と答える彼らを見て、浅川氏は「囗本の企業では『家族を取る』と言うヤツはダメだと言われていたのでショックだった」と語る。
プライベートな部分の充実が、仕事をするうえでどれほど重要であるかという気づきは、後の浅川氏の行うキャリアカウンセリングにとって大きな意味を持つこととなるが、この時点では、日本企業と外国企業の文化の違いとして受け止めるにとどまった。
もう1つ海外駐在経験で学んだことは、駐在員の「孤独」である。本社と離れた場所で仕事をし、生活する彼らは「非常に孤独な存在である」と浅川氏は語る。「仕事でもプライベートでも、何か問題が起こった時にだれに相談すればいいのかがわからないという不安がある」(浅川氏)。相談相手は本社の事業部なのか、人事部なのか、それとも現地の上司やスタッフなのか…。このあたりが見えていないと、駐在員は安心して仕事に取り組むことができないのではないかーーという問題意識が浅川氏に芽生えたのもこのころである。
実は、浅川氏はロンドン駐在から帰国した後、しばらくして2年間ほど労働組合に籍を置いていた。「海外委員長」や「書記長」を務め、海外にいる駐在員のケアのため、アフリカや中東、アジア諸国を回り、駐在員が本社になかなか言えない本音を聞き出していった。また、国内では、全国に点在する支社、営業所、さらには別会社に出向している社員のフォローのため、出向先の企業にまで出向いて話を聞いた。「組合の立場から人事部を見て、その業務や方針に関心を持った」と浅川氏自身が語るように、この時の経験は、後の人事部やキャリアカウンセリング室での仕事に活きることとなる。
人事部への異動
1990 年、40 歳だった浅川氏は突然、キャリアの転機を迎えることとなる。オーストラリアでの石油の仕事で思うような成果を上げられなかった彼は、「エネルギー部門では不要な人材と言われたように感じた」(浅川氏) ことから、次のキャリアを模索し始める。「エネルギーであれだけ頑張ったのに」と思いながらも、次の居場所を探していろいろな人たちに相談し、アドバイスを求めた。こうした人脈も、実は彼がこれまでのキャリアで築いていったものだ。そのなかの1人、浅川氏が口ンドン駐在時代にお世話になった方で、当時の人事部の先輩にコンタクトを取ったところ、「うちへ来ないか」と誘われる。
それまで国際的な営業の第一線にいた浅川氏にとって、「人事」という仕事は未知の分野。「自分は全くの“素人” であり、人事部のメンバーは入社以来ずうっと人事畑を歩いてきた専門家。そんななかで自分は何かできるのだろうと不安だった」(浅川氏)。しかし、
・海外駐在での公私にわたる経験
・営業マンとしての現場感覚