バブルジェットプリンター開発にみる中間人材の活かし方 メンバーの才能を最大限に引き出し、 活用させていくには、現場リーダーが “縁の下の力持ち”であるべきだ
印刷技術に大革命をもたらしたバブルジェットプリンター。その開発リーダーとしてチームを“押し上げた”のが、太田徳也氏である。「リーダーは縁の下の力持ちであるべきだ」と語る太田氏は、メンバーの才能を引き出し活用することで、1つの大発明を製品化に結び付け、一大市場を形成するうえで大きな役割を果たした。本稿ではバブルジェツト開発の経緯を紹介するとともに、太田氏にご登場いただき、開発を成功に導いたポイントを伺った。
多くの技術的な壁を乗り越えたバブルジェツトプリンター開発
印刷技術の大革命は1つの偶然から生まれた
インクをノズルから紙に吹き付けることで印刷するプリンターをインクジェットプリンターと呼ぶが、そのなかでもキヤノンが独自に開発し、「20 世紀における印刷技術上の大革命」と呼ばれたのがバブルジェットプリンターである。現在ではインクジェットプリンターの70 %がこの方式を採用しており、インクジェットプリンター市場成長に果たす役割は大きい。インクジェットプリンター市場は、2003 年には全世界で複合機を含めて約7,480万台に上つたといわれている。
しかしキヤノンが世界で初めてバブルジェット技術開発に成功した1970 年代後半、バブルジェットは決して「将来を約束された事業」ではなかった。「むしろ、社内では『あれは芽がない』という反対派も多かった」と、開発チームメンバーであった太田徳也氏は語る。インクジェットの将来性が認められ、キヤノン中央研究所の4大テーマの1つに位置づけられてはいたが、“ 主流”事業部として全社的に認知されたのは成功後のことである。
バブルジェット技術のコンセプトが生まれた瞬間には、運命的なエピソードがある。ある日、研究員の1人が偶然、インクを詰めた注射器にはんだゴテを当ててしまった。その瞬間、インクが勢いよく飛び出しだのを見て、開発チーフであった遠藤一郎氏(現専務取締役) は「この現象が当時インクジェットの主流だったピエソ方式に変わる、新しい方式になり得るのではないか」とひらめいたという。
壁また、壁…… 成功までの困難の数々
骨子となる技術のコンセプトを得たとはいえ、その後も困難の連続であったのはいうまでもない。開発チームが最初にぶつかった技術的な壁は、インクを加熱するヒーター材の耐久性であった。生成したバブル(泡)が消滅する際に生まれる強い衝撃波が、やはりヒーター面に亀裂を入れ、片っ端から破壊するという現象にも悩まされた。これらの問題を解決し、耐久性の優れたプリンターヘッドを完成するまでに、7年の年月を費やしたという。
次に問題となったのはインクである。噴出前のインクは、ノズルのなかで瞬間的に300 ~400 度に加熱される。しかしそれは通常のインクの耐熱温度を超えるため、インク成分が変質して、ヒーター上に黒いコゲつきを残す。この現象はバブルジェットに適した新規耐熱性染料の開発と、‥精製過程で不純物が混入しないようにする、精密精製方法の開発によって解決することができた。ちなみにインクのコゲつき現象について学会で発表した際、太田氏は「これを日本でμ、KOGAT10Nと呼ぶ(「コゲつき」をもじった太田氏の造語)」と説明したところ、そのまま受け入れられ、現在では国際的な専門用語として認知されているという。
太田氏らによって生まれたバブルジェット技術は、その後も改良が重ねられ、今日では3,000 を超えるノズルでわずか2ピコリットル(1兆分の2リットル)のインク滴を、ミクロンサイズの的に正確に着弾させることができるようになった。 1984 年にキヤノン製バプルジェットプリンターが市場に登場して以来、約20 年。現在ではキヤノンのインクジェット事業は3,500 億円規模にまで成長している。
中途採用の“よそ者グループ”中心で新事業立ち上げ
私は農学部出身であり、光学や機械、電気工学部出身者の多いキヤノンでは“変わり種”である。キヤノンに入る前は日本の顔料のトップメーカーである大日精化工業に在籍し、そこで8年間顔料を合成していた。キヤノンと大日精化か共同開発を行ったのがきっかけで、キヤノンに移ることになったのである。
そんな私に任されたバブルジェット開発は、全くアメリカ的なやり方でスタートした。「インクジェット技術者募集」と公募したのだ。競合他社から応募者がドーツと集まり、事業部を立ち上げた時は73 名。立ち上げた時はメンバーの半分以上が中途採用者で、キヤノンのなかに別会社ができたようなムードがあった。