連載 「偶然」からキャリアをつくる 第5回 ~“意図的”にキャリアをつくってこなかった人たち~ 「やってみなければわからないことは、やってみたい」

株式会社スーパーナースは、1993 年に設立された看護師紹介会社。全国の病院や診療所に看護師を紹介したり、在宅看護サービスを行うなど、高齢化社会において欠かすことができない「看護サービス」を提供するベンチャー企業である。 2000年に代表取締役社長に就任した西川久仁子氏は、それまでのキャリアとは全く異なる医療ビジネスの世界に、経営者として足を踏み入れた。そこに至るまでに、彼女のどんな「偶然」と出会い、それと向き合ってきたのかを見てみたい。
子供時代~ 大学卒業まで
父親の仕事の都合で、小学生のころカナダに住んでいた西川氏は、そこでのびのびとした子供時代を送った。「毎日が楽しくて遊んでばかりいた3 年間だった」(西川氏) が、帰国して東京都下の小学校に転校してきた彼女は、そこで、カナダとはまったく違う“社会”があることを知る。
転校生の彼女はあまりクラスに溶け込むことができずにいた。一方で、同級生の尊敬や信頼を集めている生徒がいたが、その理由は「三代前からこの土地に住んでいる家の子供だから」というものだった。
それを聞いた西川氏は、「直接自分とは関係のないことで評価されるのは変だと思った」と言う。こうした閉鎖的な考え方に対して、少女時代の西川氏は違和感を持ち、それは彼女の価値観の形成に少なからず影響を与えることとなる。
中学・高校と進学校で学んだ彼女は、大学受験では「宇宙工学」を勉強したいと思い、理科系の進路選択をする。ただし、漠然と「宇宙」に憧れていたものの、「実際には何をやりたいのかよくわからなかった」(西川氏)。
一方、母親から将来は「医者」か「弁護士」になるように勧められ、結局は医学部にも進める東大の理科皿類を受験するが、失敗する。
「試験に落ちてみて初めて、自分自身がどうしても受かりたいと思わない限り試験には受からないということに気づいた」(西川氏)。それと同時に西川氏は「だれかに認められるための進路選択はしたくないとも思った」と言う。

「大事なことは、人からどう思われるかではなく、自分は何をしたいか。自分か納得してhappy な状態でないと良い結果は出ない」ということを学んだと、西川氏は語る。
翌年、進路を文科系に変えた西川氏は、東大に再チャレンジし、文科I 類に合格する。
シティバンク時代
その後、法学部に進んだ彼女は、両親の希望や同級生たちの進路選択に影響を受けることなく、司法試験も公務員試験も受験せずに、シティバンクへの就職を決める。シティバンクを選んだ理由は、「総合職や一般職といった区分がなく、男女同等の扱いだったから」(西川氏)。
男女雇用機会均等法が施行された1986 年、女性を「総合職」、「一般職」というコースに分けて採用する企業が増えたが、そのような分け方があること自体、「総合職」の女性が特別な存在であったことを物語っている。「日本企業の“総合職”はうさん臭いと思っていた」西川氏は、外資系企業への就職を決めた。
彼女の選択について、周囲からは「どうしてシティバンクなのか」とさかんに言われたという。大学時代の友人の多くは司法試験や公務員を目指しており、そのなかで、民間企業、しかも外資系金融機関に入社するのはかなりまれなケースだと言える。
しかし、西川氏には法曹関係の仕事も、公務員になって「国を動かす仕事」にも興味はなかった。「とにかく人から与えられたり、強制されたものではなく、自分自身で選びたかった」(西川氏)。
シティバンクでは男女の差を感じることなく、のびのびと仕事をすることができた。特に、「最初の上司に恵まれた」と西川氏は語る。「その上司から仕事を任され、自分の創意・工夫で仕事をすることができた」(西川氏)。
外資系証券会社向けの商品開発や営業を担当し、3 年ほど経ったところで、彼女は海外の大学に留学したいと思うようになる。海外留学制度があるということが、そもそもシティバンクに入った理由の1つであった。また、より難易度の高い仕事を任されるにようになるにつれて、ファイナンスや経済学の知識をもっと習得しなければならないと思うようになった。
しかし、シティバンクでは西川氏が入社した後、海外留学制度は廃止されてしまっていた。どうしても留学したかった彼女は、「だめでもともと」と思い、会社に対して学費だけでも出してもらえないかと交渉する。「もしだめだったら会社を辞める覚悟だった」彼女の熱意が伝わり、会社から学費と推薦状をもらい、スタンフォード大学に留学する。ちなみに、生活費の方は必ず返済するという約束で、両親から借金した。
アメリカ時代~留学そしてニューヨーク勤務
スタンフォード大学でMBA を取得した西川氏は、そのまま日本には戻らず、異動希望を出して、シティバンクのニューヨーク本社で働くこととなった。その年の大学院卒と同じ条件で採用してもらい、「日本とは関係ない部署で自分かどれだけ通用するか試してみたかった」という。