連載 「偶然」からキャリアをつくる 第10回 ~“意図的”にキャリアをつくってこなかった人たち~ 「“ここにはない何か”を求めて、 いろいろな人や世界と出会い続ける」
「インデベンデントコントラクター」(IC )という働き方がある。「独立自営業者」と訳されることもあるが、従来の「自営業」とはニュアンスが異なり、むしろ「独立(Independent) 」の方にウエートが置かれた名称だ。アメリカでは多種多様な業界で“雇われない働き方’をしている人々がいる。日本でもIT 、広告、出版、コンサルティングなどの分野で、自らIC を名乗る人たちが増えてきた。
人気雑誌「ターザン」の編集長を経て、現在、雑誌や書籍、ウェブなどさまざまなメディアの「編集」の仕事に携わっている及川氏も、そんなIC の一人。彼がどのようにして「編集」という仕事に出会ったかを見ながら、キャリアにおいて「偶然」の要素がやはり無視できないことを確認してみたい。
子供時代~高校時代
友達が多く、先生からも友達の親からも好かれる活発な子供。それが及川氏の小・中学生時代だった。学校の成績も良く、中学時代、毎回張り出されるテスト結果の順位は2番か3番。しかし、いわゆる“ガリ勉タイプ”ではなく、昆虫採集、ラジオ作り、アマチユア無線、読書など、多趣昧な少年だったという。特に読書が好きで、「家にある父親の蔵書を手当たり次第読んでいた」(及川氏)。
読むだけでなく書くことも好きだった及川少年は、当時、新聞によく詩を投稿していた。ある新聞に小学生の書いた詩を載せるコーナーがあり、及川氏はそこの常連だったのだ。何度も掲載されるので、ついには本名だけでなくペンネームで応募したこともあった。「とにかく活字や文章が好きな子供だった」と及川氏は語る。
高校は、地元小倉にある有名校に進学。そこで彼は、それまでの価値観が大きく変わる出来事に遭遇する。中学校時代は、あまり勉強しなくても成績が上位から落ちることはなかったが、高校に入ってからは、「勉強しないで遊んでいたら本当に成績が下がってしまった」(及川氏)。しかし、本人はあまりそれを気にすることなく、他の中学校から来た自分と同じタイプの同級生かちと遊び回っていた。
ところが、テストの成績が張り出され、及川氏の成績が下がったことについて、中学時代から仲の良かった友達から「ざまみろ」という言葉を投げつけられる。それまで友達だと思っていた人が、そんな風に自分のことを思っていたと知って及川氏は「人間不信になった」。さらに、一生懸命勉強して友達の成績を抜いて、さらにはそれをあざ笑うという行為が及川氏にはどうしても理解できなかった。また、そんな人間をつくってしまう教育システムにも嫌悪感を抱いた。
この“事件” をきっかけに及川氏は「完全にグレだ」。高校に入ったころ、それまで家族と住んでいたアパートに及川氏は一人で暮らしていたが、“事件”以来、学校へは行かなくなり、部屋で本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見に行ったりしていた。当時(1970 年代)、彼が影響を受けたのは、アメリカンニューシネマやウッドストックに代表されるカウンターカルチャー。そうした文化に触れることで、及川氏は「世の中で一般的に言われている善悪は本当は逆なのではないか」と、次第に思い始める。そして、何か正しくて、何か間違っているかは全部自分で判断しなければダメだと感じ、[ そのためにも、いろいろなものを吸収する必要があると思った](及川氏)。
一人暮らしの自由かつ孤独な生活を送って気づいたことは、世間の「常識」が本当に正しいかどうかを自分なりに調べてみると、実は「嘘」がかなり多いということだった。教育システムや権力の構造など、自分が間違っていると思ったことが、世間では正しいとされていることに納得できなかった。
例えば国語や歴史の授業。授業では、自分で読んだり、調べたことで彼自身が感じたことと違うことが教えられる。「自分の方が教師よりもはるかに深く本を読み込んでいる」という自負があり、「底の浅い教師をバカにしていた」(及川氏)。
当時は、ベトナム戦争の時代でもあった。基地のある佐世保ほどではなかったが、小倉でも戦争反対のムードは強かった。それなのに、テストの点数が1 点上がった、下がったといって騒いでいる教師や同級生たちが理解できず、ますます「教育」や「権力」に対する疑問や嫌悪が募っていった。
大学受験の時期になっても、相変わらず学校には行かず、気ままな一人暮らしをしていたが、さすがに学校から両親へ通知があり、及川氏は両親の家に連れ戻されることとなる。勉強をしないまま、何となく憧れのあった北海道の大学を受験するが、「前日ススキノで飲んでしまい」(及川氏)、失敗。当時、国立二期校だった東京農工大学の工学部を受験し、こちらは合格するが、たまたま試験会場となった一橋大学のキャンパスの美しさにひかれて、一橋大学に行くことを決意する。
ただ、及川氏は理科系の受験生だった。社会科学系の大学である一橋大学に入るためには方向転換が必要となる。それでも、当時、この大学にはぜひ学んでみたいと思う教授(社会心理学の南博教授)がいたことから、理科系から一転して社会学部を受験することにした。この時、「必ず自分はこの大学に来るという根拠のない自信があった」と及川氏は言う。「最終的には失敗では終わらないだろうという確信のようなものがあった」(及川氏)。
こうして及川氏は、新たな決意とともにいったん小倉に戻り、予備校に通うというプランを立てた。ところが、浪人することに対して父親は猛反対Oその父親を説得しようとした矢先に、それまでの疲れのせいか、及川氏は高熱を出して寝込んでしまう。その隙に父親が入学の手続きを済ませてしまったため、4月からとりあえずは東京農工大に通うこととなった。
大学時代
しかし彼の決意は固く、6月には大学を辞め、小倉に戻り予備校に行き始めた。予備校でもあまり勉強しなかったが、一橋大学の過去の問題を見ると、日本史や世界史は小論文形式で、しかも自分が好きな時代(日本史は幕末、世界史は太平洋戦争) に関する出題が多い。さらに英語ではヒアリングの問題が出され、これも音楽や映画に熱中していたことが役立った。