連載 人事制度解体新書 第19 回 日本原料 プロジェクトが会社を活性化! 「ブルーバード制度( 青年取締役制度)」 で取締役候補を戦略的に育成
中堅・中小企業では、後継者選びに困っている会社が少なくない。そうしたなかにあって、ろ過砂製造・販売で業界シェア8割を誇る日本原料では、一般社員でも企画内容次第で取締役と同等の権限と年収を得られる『ブルーバード制度( 青年取締役制度)』を導入した。年功序列を否定し、若手に権限と活躍の場を与え、次世代の「取締役候補」を育成すると同時に、社内を活性化させ業績アップを目指すものだ。しかし、ここまでの“道のり”はというと、必ずしも平坦なものではなかった。その「大改革」を行った3代目社長・齊藤安弘氏に、詳しいお話を伺うことができた。
26 歳で入社した経緯

日本原料は創業が1939 年と古く、非常に歴史のある会社である。第二次大戦後、ろ過材専門会社としてスタートして以降、ろ過材メーカーのシェアNOユを誇っており、何と日本全国の浄水場の80 %以上で同社のろ過材が使用されているという。また、取引先の大半は官公庁ということもあって、安定した経営基盤を確立している。
しかし、業界トップの座に甘え、設備投資や新卒採用のない旧態依然とした状態が、実は初代社長が他界した70年から続いていた。そして昭和から平成へと時代が移った89 年、この時の社員の平均年齢は何と57 歳にまで達している。ただ、それでも年商は10 億円を超えていた( 図表1)。

「日本原料は、私の祖父が興した会社です。しかし、祖父には男の子供がいませんでした。皆、女の子ばかりの5人。そして、長女に孫が生まれました。待望の男の子。それが私なのです」と同社の歴史を語り始めてくれたのが3代目で、現在の代表取締役社長、齊藤安弘氏である。
「初代社長の後は、祖母が社長をしていました。正直、経営は素人でしたが、そのころの日本原料とは浄水場でろ過砂が必要となれば、黙っていても官公庁からオーダーが入るような会社だったのです。待つだけの営業で経営が成り立つという稀有な会社でした。他社との競合もないうえに自然と売り上げが立つから社員にやる気が出るわけありません。当然、新入社員を採用する必要もない。このような状況のなか、日本原料の改革を実現しようと、当時まだ26 歳だった私か入社したのです」(斎藤氏)
もっとも齊藤氏自身、当初は会社を継ぐ気持ちは全くなかったという。祖母は事あるごとに会社を継いでもらうように言っていたものの、大学は工学部へと進み、現在の横河電機に就職していた。そのころはまだバブル景気華やかな時代で、600 人もの新卒採用があった。大勢の仲間たちと、SE として忙しい毎日を送っていた。
そんな時、齊藤氏は1枚の写真を祖母から見せられる。それは、齊藤氏が1歳の誕生日に写した写真だ。そこには、祖父の直筆で「夢でもいいから早く20 年」と記されていた。「自分の後を、何としてでも継いで欲しいという祖父の願いを感じずにはいられませんでした」(齊藤氏)。結局、祖母は齊藤氏をトップにするために、20年間以上も社長を守り続けていたのである。
「まさに、運命というものを感じましたね。ただ、いますぐとはいきませんでした。その3年後の平成元年に新入社員として入社することになりました。ただし、当時は日本原料という会社がどういう業務内容なのか、私はほとんど知らなかったのも事実です。なぜなら、祖父の熱い願いと80 歳近かった祖母の状態を考えて、決心しただけのことでしたから」(齊藤氏)
「コンピューター」 vs 「ソロバン」の戦い!?
このような経緯で平成が始まった89年、齊藤氏は日本原料に入社することとなった。もっとも、大学での専攻は工学部、前職では技術職だったが、顧客のことを知らないといけないという理由で営業へと配属された。そして、入社3日目に有名な職人が作成したという「ソロバン」が与えられる。「大切に扱い、一生の伴侶とするように言われました。横河電機時代はコンピューターを使っていた自分ですけれど……](齊藤氏)。
そんなある日、営業部長から分厚い書類の束を渡され、原価計算をソロバンで行うよう命令された。しかも、2日間をかけて、と。唖然としたのは言うまでもない。すぐさま持っていたポケット電卓に簡単なプログラムを組み、2時間で計算を終えて書類を持って行くと、何と部長が怒鳴るのである。「何で、言われた通りにやらないのだ」と。しかし、ソロバンで検算してみると確かに計算は合っている。今度は一転して、「おまえは天才だ冂と褒め称えるあり様たった。
コンピューターを使えば2時間で終わるような仕事を、この当時の日本原料ではソロバンで2日間もかけてやっていたわけだ。世の中のパラダイムやスピード感とは、全くかけ離れた世界がここにあった。しかし、世はバブルの時代。平均年齢57 歳の会社がこのように漫然と仕事を行っていても、業績は揺るぎもしない。いま思えば、幸せな時代だった。
ただし、この件で古株の社員は警戒心を強めた。彼らにすれば、定年までのあと数年間を無事に過ごせば、退職金がもらえる。そして、その後のことは別に知ったことではない。
しかし、将来の“社長含み”で入社した齊藤氏はそうはいかない。まず、時代遅れの仕事のやり方を何とかしようと考えた。
「そのころ、台帳は手書きで、しかも同じ内容を4回も転記していました。こんな無駄なことはしたくないと思い、パソコンとソフトを購入してもらうよう稟議書を出しました。ところが、その返事が來だのが何と半年後。しかも、そんなだれもわからない機械に何十万円もかけられないと言い出す始末。本気で、いまの仕事のやり方で問題ないと思っているのですから、その失望感たるや非常に大きかったですね」(齊藤氏)
現在57 歳の社員は、あと数年たてば退職金をもらって、悠々自適の生活が送れる。しかし、それを看過していたら、その後の会社はどうなるのか。齊藤氏は、新しい血の導入が必要だと考えた。自分と同じような考えを持つ人間を採用し、社内改革を行おうと心に決めた。しかし、今回のコンピューターの一件を見ても、自分の力だけで会社を変えることは難しい。社長ではあるが実権のない祖母と平社員の自分との間にだれか援軍が欲しいと考えだ。
そこで白羽の矢を立てたのが、そのころフジテレビに勤務していた叔父である。 F1 を囗本に呼んだ男として、業界では有名なプロデューサーだった。その叔父を、副社長待遇で迎え入れることにした。叔父は企画開発推進本部を設け、自ら本部長に就くと同時に、齊藤氏を唯一のスタッフとして傘下に置いた。「早速、新卒採用の開始と、コンピューター導入の要望を出しました」(齊藤氏) 。しかし、事はそう簡単に運ばなかった。

