人物にフォーカス フェアレディZ生みの親 Mr.Kこと片山豊氏が語る 壁があるからこそ、 人生も、仕事も面白い

95 歳という年齢が信じられないほど、熱い思いをブツブツと、しかもさわやかにたぎらせる片山豊氏。全米で142 万台を販売、1977 年には世界最多スポーツカー記録を樹立した「ダットサン204Z」(日本名はフェアレディZ)の生みの親その人である。自身で“勝手者”と評するその歩みは、まさに壁また壁の連続。しかし逆境やチャンスのなかで、意志を貫き、仲間とともに日産自動車の歴史を切り開いた。そこに片山氏の「夢」と「感性」が輝いている。
社長になって好きな車をつくろう

何かをやろうとすると必ず壁にぶつかるものだが、それは案外、便利である。なぜかって? 壁があれば押せばいい。だいいち、壁がなかったら、押すことだってできやしない。しかも壁を押し続け、ようやく動かした時の気持ちは、非常にいいものだ。
見上げるような大きな壁を前にして、「どうにもならない」と感じることがあるかもしれない。
しかしちょっと考えてみて欲しい。その壁をよく見れば、米粒ほどの小さなアリが登ってはいないだろうか? アリが登れるのなら、人間が登れないはずはない。壁を乗り越える何かの方法が必ずあるはずで、その方法を考えるのが、これまた面白い。
私は70 年からアメリカでフェアレディZ(米国での名前はダットサン240Z )を販売し始め、米国日産社長を退任する77 年までに142 万台を売った。この記録は世界最多スポーツカー記録を樹立したとして、98 年に日本人としては4人目の米国自動車殿堂入りを果たした。しかしその過程は文字通り壁だらけだった。
私は子供のころ、エンジニアになって自動車エンジンをつくることを夢見ていたOただ残念ながら技術系の志望校から断られた。そこで文化系の慶應義塾大学に入り、卒業後、日産自動車に入社した。
文系出身の私か、車をつくるためにはどうすればいいか。そうだ!「社長になろう」。こうひらめいた。社長になれば自分の好きな車がつくれるに違いないと考えたのだ。
何とかして社長に近づきたいと思っていた私の目を引いたのが、「宣伝・広報」という仕事だった。いまでこそ「広報」は経営戦略上、重要な役割を果たしていると認知されている。しかし私か入社した35 年当時、宣伝は外の業者に丸投げする雑務の一つだと考えられていた。だが私には、宣伝は社長の意向を内外に知らしめる重要な仕事だと思えた。
そこで上司に宣伝をやりたいと直訴した。私の訴えを聞いて、「お前、それはチンドン屋の仕事だよ」と言った上司の言葉をいまでも覚えている。