CASE2 ソニー 大変革のなかで誕生した 現場ニーズをくみ上げた研修 技術者の「本気」を引き出す 研修が組織を変える

ソニーでは出井最高顧問が社長に就任した1995 年から今世紀初めにかけて「リ・ジェネレーション21」と呼ばれる、大規模な事業戦略の転換が行われた。この変革は、ソニーの今日のデジタル化・IT 戦略に大きな影響を与えたが、この変革期のなかで、その後のソニーの人材育成のスタイルに大きな示唆を投げかけたユニークな研修が実施された。
1990年代半ばに始まったソニーの第2創業の変革
「1990年代中ごろがソニーの人材育成の大きな転換点になったと考えています」とソニー・人事センター・コンサルタントの中野隆生氏は、このように語っている。
1990年代中盤は、バブル崩壊により日本経済が混迷し、また将来展望を描けないなかで経営環境が厳しさを増していた時期でもある。その一方で、インターネットを始め、さまざまなデジタル技術、通信技術を背景にした先端的な製品群が市場に投入され、IT(情報技術)のもたらす未来像が、さまざまに語られ始めていた。
このころ、ソニーでは、出井伸之・最高顧問がソニーの代表取締役社長に就任し(1995 年4 月)、「リ・ジェネレーション21」(第2創業)を宣言して、創業の初心に立ち返って、新しいビジネス環境のなかで、新しいソニーの魅力を創造していこうという方針を打ち出した。
「井深・森田の二人の創業者が創業した東京通信工業(ソニーの前身)から今日までの50 年の歴史を振り返り、その初心に立ち返って、第2の創業を全社的に目指していこうというのが出井の『リ・ジェネレーション21』宣言の趣旨だったわけです」と中野氏は語る。
具体的にいえば、「コンピューター(デジタル)の技術、文化を一日も早くソニーの基幹部分に取り入れたい」というのが当時の出井氏の狙いであり、これを創業の精神に立ち返って実現していこうというものだ。
中野氏は、ソニー入社後、長らく技術部門に在籍し、テレビのブラウン管開発に携わり、フラット型ディスプレイ、スパッタリング技術の実用化による無反射ディスプレイの開発や生産ライン管理などに携わってきた技術者である。
「私自身は、フラット型ディスプレイ、無反射ディスプレイという画期的な開発に立ち会うという技術者冥利を2度も経験することができました。さらに、次の新規開発に参加したいという思いがなかったわけではありませんが、これまでの経験を生かして、次の開発を担う若手の育成に当たるのも良いのではないかと思いまして」
中野氏は、1994年にキャリア・デベロプメント・インタナショナル(ソニーの本社人事部門の教育研修グループが分社化して設立された別会社)に異動し、自らの経験を生かして、若手技術者教育に当たることになった。まさにそういう時期に、出井社長(当時)就任をきっかけとした、ソニー自身の大きな転換が開始されたというわけだ。
これにより、中野氏の新しいポストでの主要な役割は、ソニーの創造性を継承・発展させていくための若手技術者を対象にした「創造性開発プログラム」の開発と、「リ・ジェネレーション21」を具現化するための社内の人材(特に技術者層)の意識転換、キャリアデザイン、人材育成へと向けられることになった。この取り組みは、その後間もなく「リ・ジェネレーション21(第2創業)研修」というネーミングの全社的な取り組みとなって現れることになる。
新経営ビジョンに伴う個々の人材のキャリアデザインの転換
当時、出井氏が「リ・ジェネレーション21」とともに打ち出した経営ビジョンのキーワードが「デジタル・ドリーム・キッズ」である。デジタル時代に育ち、デジタル技術に目をキラキラさせるデジタル・ドリーム・キッズが、将来のソニーの顧客になっていく。ソニーはデジタル・ドリーム・キッズの夢をかなえる企業にならなければいけない。そのためには、ソニーの全社員は、新しい技術環境に目を輝かすデジタル・ドリーム・キッズでなくてはいけないというのが、このキーワードに込められた意味だ。
「ソニーは創業以来、AV を主軸にしたモノづくり、いわばハードウェアの企業としてやってきたわけです。モノづくりの技術やスキルを磨こうとしてやってきた多くの技術者が、ITやデジタル技術を核にした新たなキャリアデザインを描かなければならなくなったということでしょう」
今回の取材に同席した慶應義塾大学総合政策学部の花田光世教授は、当時のソニーの技術者が置かれることになった環境をこのように解説した。
また、花田教授は、それまで大量にいたハードウェア技術者や、バブル期に従来のビジネスモデルのなかで自らの将来を描いて大量に採用された若手技術者を、「デジタル・ドリーム・キッズ」のビジネス・コンセプトに適合した人材へと転換させることが、ソニーの重要な経営課題になっていったとも指摘した。