連載 人材教育最前線 第8回 正解がないからこそ大切な 人材開発という仕事
矢崎グループでは、2004 年からミドルマネジメントのボトムアップを目指して新任の管理職を対象にマネジメント研修をスタートさせた。導入の推進役となったのは、矢崎総業人材開発室人材開発部リーダーの杉浦万寿夫氏。技術スタッフとして最先端の研究開発に携わっていた杉浦氏が、人材開発スタッフとして風土改革に取り組むようになったのはなぜか。その熱い思いを伺った。
「専門を持つな」、そして「目の前の仕事を好きになれ」
ワイヤーハーネスでは世界トップクラスのシェアを誇る矢崎グループは、ワイヤーハーネスのほか、電線ケーブル、ガスメーター、空調機器等の製造、販売も行っており、日本を含む38カ国に185 拠点を持ち、世界中に16万3000人もの従業員を擁するグローバル企業である。国内では、法人数は90を数え、約1万8000 人が働いている。
矢崎総業は、矢崎グループ全社製品の販売を担当し、経営管理と新製品の研究開発、グループ間の人事、人材開発も行っている。
1941年の創業以来、従業員教育に力を注いできた矢崎グループでは、資格等級ごとの研修をはじめ、入社5 年目の社員を対象にしたフォローアップ研修、部長職以上の社員を対象にしたマネジメント懇話会、国内外への大学、大学院への派遣留学制度など、さまざまな研修制度を用意し、教育体系を整備してきた。しかし、その特徴を杉浦氏は「従業員全員に公平に教育機会を提供することを重視した、いわば社員に『優しい』ものであった。いままではそれが上手く機能してきたが、果たして今後もこのままでいいのだろうか」と指摘。さらには、「業務プロセスの全体最適はミドル層が鍵を握る。しかし当社は、この層に特化した人材育成の仕組みは整備されていなかった」と解説する。
杉浦氏が中心となって2004 年からスタートしたマネジメント研修は、その問題認識から導入されたものである。とはいえ、導入までの道のりは決して容易なものではなかった。
今年41歳となる杉浦氏が矢崎に入社したのは1985 年、20 歳の時である。5年制の沼津高等専門学校卒業後、叔父の薦めもあって矢崎電線に入社した。特に就職活動で苦労した覚えもないと苦笑する杉浦氏は、地元の大企業、矢崎グループの一員に加わることに何の疑問も持たなかったとも。しかし、入社後すぐに厳しい仕事の世界の中で自分の力の足りなさを痛感することとなる。そこで翌年、杉浦氏は国内派遣留学制度を活用し豊田工業大学への受験を決意した。将来、中核となるエンジニアを育成することを目的に若手技術者を対象とした国内留学制度は85年から始まっていたが、杉浦氏はこれに応募。入学試験に合格し、給料を受け取りながら4年間の学生生活を送った。
大学では、材料物性研究室の中島耕一教授の下で学んだ。尊敬する中島先生の言葉のなかで最も印象に残っているのは卒業の際に贈られた「専門を持つな」という言葉。これは先生独特の言い回しであり、いまでこそ「特定のことに拘泥するとほかのことが見えなくなる、常にどんなことにもオープンに接しろ」ということだと理解しているが「当時の私には正直に言って先生の意図がよくわかりませんでした」
90 年3 月、豊田工業大学を卒業した杉浦氏は矢崎総業に復帰、応用研究部へと配属された。ワイヤーハーネスの研究開発部門で、レーザー光線を利用した溶接の研究開発を担当した杉浦氏は、先端技術の指導を受けるために千葉大学の渡部武弘教授に指導を仰いだ。ここでも杉浦氏は渡部先生から貴重な言葉をもらうこととなる。それは「与えられた仕事を好きになれ」というもの。「無理にでも与えられた仕事を好きになりなさい。そうすれば必ずや成果を上げることができる。仕事を好きになることそのものが能力なのだ」と渡部先生は語った。
中島、渡部両先生の言葉は、呼応しているようにも思える。もっとも杉浦氏だからこそ、これらの言葉が染み入ったのだろう。目の前の課題に真摯に取り組むという柔軟性があったからこそ、杉浦氏は2人の言葉を素直に受け取れたに違いない。
成功の鍵は、キーマンにいかにうまく動いてもらうか
転機は、98 年に訪れた。前年7 月、車載統合システム開発事業部に配属された杉浦氏は、取引先の一つであるカーメーカーからの要請を受け、矢崎グループが総力を上げて取り組んだ将来を見据えた技術と商品の企画を提案するためのプロジェクトを担当することになったのである。これは10年後の社会に求められる車の姿をまず策定したうえで、その車に対し矢崎はどのような貢献ができるかを提案するというものだった。
次期モデルを対象とした短期的な開発だけでは現実的ではあるがブレークスルーは生まれにくい。長期の視野に立つことによっていわゆる「創発」を産み出すことがカーメーカーの企図であった。しかもこの課題は競合他社も含む複数のサプライヤーにも出されており、最終的に各社1 台ずつ実際の車を使ってその成果をプレゼンするというものであった。
「それまで研究開発部門で技術者として個別の具体的な技術開発に取り組んできましたから、企画や技術マーケティングといった仕事はとても新鮮に感じられました」と、この時の興奮を杉浦氏は述懐する。