連載 人材教育最前線 第9 回 人事担当者の使命は、人との接点を どれだけ持つことができるか
韓国企業NHN Corporation の日本法人NHN Japan の人事支援室室長北村公一氏の韓国との出合いは、17 歳の時だった。2 歳年下の少年との友情が、韓国企業へ導いてくれた。人との出会いが最大のモチベーションになるのではないかと語る北村氏に、人事担当者としての想いを伺った。
アメリカ留学が与えてくれた韓国との出合い
北村公一氏の転機は、1988年、高校2年の夏だった。海外への興味と英語を習得したいという思いから1カ月の短期留学に向かったジョージア州アトランタのハイスクールでの出会いが、彼のその後の人生を決定づけたのである。
「風と共に去りぬ」の舞台としても有名な南部の街アトランタには、いまもなお人種問題が影を落としているが、それは当時の北村氏にとっても受け止めなければならない厳しい現実として現れた。
初めての海外生活にドギマギして困り果てている日本人に手を差し伸べてくれたのは、2 歳年下の在米韓国人の少年だった。韓国移民二世の彼は、両親から「日本人とは仲良くするな」と育てられた。しかし彼は、「困っている人を放っておけない」と、何くれとなく北村氏の面倒を見てくれたのである。結局北村氏は留学を1年間に延長したのだが、その生活を支えてくれたのはまさに彼だった。そしてそれは韓国に関心を抱くきっかけとなった。
02年の日韓ワールドカップや韓流ブームによって身近な隣国となった韓国だが、「近くて遠い国」と称されていた当時、日本の多くの若者は日韓の歴史についてどれだけの知識を持っていただろう。
「少なくとも、日本では学校の歴史教育で日韓関係について習うことはほとんどないですよね」と、北村氏は指摘する。しかし、韓国の歴史教育においては日韓関係がきわめて大きな問題として扱われる。韓国の人々が日本のことを好ましく思わないのは当然であり、だからこそ両親の教えを無視してまで日本人と友情を育んだ彼の存在が北村氏の心に響いたのである。
88年は、ソウルオリンピックの年でもあった。北村氏のアメリカ留学は、経済発展を遂げた韓国へ目を向けるきっかけとなった。
経営戦略に直結する人事の仕事の醍醐味
日本帰国後、韓国への関心が高まった北村氏は、東京外国語大学朝鮮語学科に進学。大学3 年時には1 年間韓国に留学した。
95年、韓国にかかわる仕事を望んだ北村氏が就職したのは、日本サムスン(当時は三星ジャパン)だった。韓国系の商社で貿易実務に携わり、グローバルな場で活躍したいと考えたからである。しかし、韓国で実施された2週間の新入社員研修中の配属面談で、北村氏が提示されたのは想像すらしていなかった人事部への配属だった。
自分以上の適任者がほかにもいるはずだといったんは拒んだ人事部配属を北村氏が受け入れたのは、説得してくれた人事課長が魅力的で、この人の傍で仕事を通じて学ぶことができるのであれば素晴らしい経験となるはずだと確信したからだ。
最初の2年間は、新卒・経歴採用と新入社員研修の仕事に携わった。志を立て、自らを鼓舞しがんばっている人たちを相手にする仕事は、北村氏自身を前向きにし続けてくれた。96年には韓国で日本人留学生を対象に新入社員の採用を実施するなど、自らの留学経験を活かした提案を実現させた。そして96年の夏、北村氏は日本サムスンの教育体系構築のためのプロジェクトチームのメンバーに任命された。