渋沢栄一に見る「人間力」の本質 その本質は論語にあり。論語が栄一の人生の原理原則を培った
幕末から明治維新の動乱期に翻弄されながらも、自らの信念を貫き、維新後は500余りの会社の起業に携わった渋沢栄一。
その葬儀には4万人を超える弔問客が訪れたという人望厚き渋沢栄一に、「人間力」の本質を見出す。
吸収魔、提案魔、結合魔
5年前の2002年6月、小泉首相はその基本方針の中で「人間力戦略」を掲げ、以来、“人間力”という言葉が流布されるようになった。
では「人間力とは何か」。誰もそれを明解に定義することはできない。
文部科学省の肝いりで発足した「人間力戦略研究会」の報告書では、人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、と前置きをした上で、次のように定義している。
「社会を構成し運営するとともに、自立した1人の人間として力強く生きていくための総合的な力」
総合的な力といえば、そこには知識、情熱、強さ、優しさ、勇気、行動力、使命感、コミュニケーション力などいろいろな要素が含まれるであろう。しかし、それらの要素をすべて兼ね備えた完璧な人間など、この世には存在しない。
ただ「この人物は凄い」「この男のためなら命を預けてもいい」という人間力にあふれた、魅力的な大きな人物はいる。その1人が渋沢栄一だろう。
先に亡くなられた作家の城山三郎氏は「彼こそ乱世を生き抜く経営者の最高峰だ。その生き方は知識を吸収する吸収魔、絶えず提案をする提案魔、人と人とを結びつけてやまない結合魔の“3魔”に尽きる」と語っていたというが、不世出の実業家であることは間違いない。
1931年(昭和6年)11月11日、栄一は91歳で亡くなるが、青山斎場で行われたその告別式には、何と4万人を超える人々が参列に駆けつけたといわれる。そしてそこに1つの逸話が書き添えられる。
栄一が亡くなった時、渋沢邸内は日夜弔問客でごった返していた。そんなある晩、家の者が庭の植え込みの中に1人の中年男が座っているのを発見した。しかも紋付袴で落葉の上に正座していた。
聞けば少年時代養育院(栄一が院長をしていた社会福祉施設)で育ち、現在は小さい工場主になっているが、養育院時代に栄一から受けた恩義が忘れられず、弔問にきたという。しかし名乗り出るほどの身分でもないので、植え込みの中で通夜をさせてもらっているということだった。早速渋沢家では家に上げて栄一の柩の前に案内し、心ゆくまで通夜をしてもらったというが、栄一の人となりの一端を表すエピソードといえる。
栄一は社会的弱者への支援、協力に力を注いだ人でもあった。