My Opinion ―② 専門性を培う過程でこそ「人間力」が身につく
ひとことに「人間力」といっても、それはとても曖昧で客観的基準で測ることは難しい。
産業構造の変化が進む中で、この言葉はともすると個人をより生きにくくし、この力を兼ね備えていない人間は排除される、といったことを招きかねない危うい言葉になる。
人間力とは専門分野を磨く中でコミュニケーションによって培われ、身につくものと考えれば非常に現実的である。
「フレクスペシャリティ」を提唱する本田准教授にお話を聞いた。
日本社会における人間力の誤解
私は「人間力」というな、今こそ専門性に立ち戻るべき、といってきている。この論点の1つは、企業、財界、政界が人間力をスローガンとして連呼することにより、個人、とくに労働者に対して望ましくない影響が及ぼされると思うからである。
今、グローバル経済における競争が激化し、個人の格差が広がる中で、「人間力があればこの厳しい状況を乗り切れるはずだ」といわれ、その逆に「苦しい状況の中で勝ち残れないのは、その人に人間力がないからだ」と、いわゆる自己責任に帰そうとする言説がまかり通っている。この点が非常に問題であると私は思う。
私は、『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)という著書の中で、「ハイパー・メリトクラシー」という造語を用いて、人間力や「○○力」といった、さまざまな「力」を渇望している日本社会についての批判を試みた。ハイパー・メリトクラシーとは、ポスト近代社会におけるメリトクラシーの亜種ないし発展形態である。
もともとのメリトクラシーとは、社会学の用語であり、業績主義と訳される。ただし企業で一般に使われている成果主義とは意味が異なる。本人が何を成しえたか、あるいは何を成しえる人であるかによって評価し、その能力に応じた地位につけようとする考え方だ。業績主義の反対が属性主義であり、人が生まれ落ちたときに既に決定されている性別、人種、家柄、血縁といった本人には変えられないものによって一生が決まってしまう、前近代社会のあり方である。
近代社会に入ってから国民教育が制度化され、少なくとも義務教育の段階では標準化された同一の教育課程を、国民のすべてが享受できるようになった。教育課程の中での達成度が、社会に出て行く際の評価基準になるというのが、業績主義の骨格になる。
学校教育を通じて身につけることのできる能力とは、教員が教えることができ、生徒ががんばって勉強すれば身につけることができ、また、身につけた度合いをテストなどで測ることができ、成績や学歴、資格などのかたちで証明され、各自が労働市場に出て行くときの評価基準になる。これがメリトクラシーである。
人間力の正体はハイパー・メリトクラシー
ポスト近代社会と呼ばれる現代においては、ハイパー・メリトクラシーというべき別の要素が混ざり込み始めた。ハイパー・メリトクラシーは、学校教育の中で養われ、測定され、証明されるようなものではなく、非常に曖昧かつ無限定で多種多様な側面をもつ能力であり、そういったものが社会の中で重要視されるようになってきた。
各種の団体や政府機関などがそれぞれに「○○力」と名づけて図を描いたり、マトリックスをつくったりしている。その中の要素としてあがってくるものは、コミュニケーション能力、問題発見・解決能力、思考力、さらには創造性や個性、意欲、関心、熱意まで含まれる場合もある。こういったものは、教育機関で短期的に育むことは難しい。どれも抽象的な概念であり、状況によって現れ方が違ってくる。