巻頭インタビュー私の人材教育論 チャンスの芽を摘まず 挑戦を促し続ければ 人は必ず挑戦したくなる
2008 年4 月、三菱ケミカルホールディングスグループの機能材料4 社1 事業部門が統合して新・三菱樹脂が発足した。グループの中で、それぞれが独自の道を歩んできた会社であったため、新会社社長となった吉田宏氏は、その融合・結束を促す場として「社長塾」を開講。
組織の要となる管理職を集め、ベクトル合わせと共に、コミュニケーションの活性化を図っている。
そして、さらに統合のシナジー効果を高めるため、「現場主義」「人本主義」の2 つの理念のもと、社員の育成に自ら率先して注力している。
石化コンビナートに魅せられてエンジニアに
── 三重県四日市のご出身だそうですね。
吉田
小さい頃から石油化学コンビナートを見て育ちました。工場の煙突やフレアースタック(余剰ガスを焼却する設備)から炎や白い煙がもくもくと立ち上っていた頃です。父親が工場の技術者だったこともあり、「すごいな」とわくわくした気持ちで眺めていたことを覚えています。いつしか自分もこんな工場で働けたらいいなと思うようになっていきました。
── 四日市でコンビナート群が建設され始めたのは昭和30年代中頃、吉田社長が10代の頃です。そこから日本の高度成長が始まるわけですが、巨大な装置やパイプラインが縦横に走る工場は、子供には魅力的に映ったのでしょうね。
吉田
父親は日曜日でも会社へ出勤するような仕事人間で、子供の頃はあまり遊んでもらった記憶がありません。でも父親の姿を見ていて影響を受けたのでしょうね。高校生になった頃にはあんなプラントを造ってみたい、とエンジニアを志望するようになっていきました。
── それで名古屋大学から当時の三菱油化へと進まれたわけですね。
吉田
実は大学では、化学工学の分野に進むべきか、コンピュータを使ったオペレーションリサーチ(OR :科学的に問題解決を行う手法)のある管理工学に進むべきか悩みました。OR のある管理工学は当時、学生に人気の新しい学科だったのですが、最終的には化学工学を選びました。プラントエンジニア、プロセスエンジニアに一番近いのが化学工学でしたし、父親も喜ぶかなと思ったのです。
── 三菱油化を就職先に選んだ理由は何だったのでしょうか。
吉田
四日市コンビナートの中核で最も早く進出したのが三菱油化ということもあり、当時の化学工学系の研究室では人気が高かったのです。1956(昭和31)年に三菱グループとシェルグループが共同出資して設立されたのが三菱油化で、当時としては非常に歴史の新しい会社でした。私が入社したのは、会社ができて14 年めの1970 年。新しい会社だけに、いろいろなことをやらせてもらえるのではないかという期待もありました。
大学を卒業して三菱油化に入社後、四日市での実習研修を経て、すぐに茨城県の鹿島に赴任しました。三菱油化は、四日市に次いで鹿島でもエチレンセンターを建設し、樹脂や化成品をつくる計画を進めていたのです。当時ちょうど第一期のプラントができたばかりで、私はその中の1つ、これから試運転を始めるポリプロピレンプラントに配属され、3交替勤務体制でプラントのオペレーションなどの指導を受けました。この職場にはいろいろな経歴を持った人たちがいて、プラント運転のスキルと共に、人との付き合い方など、いろいろなことを勉強させてもらいました。
その職場に1年半ほど勤めた後、2系列めのプラントの設計、建設が始まり、私もそのプロジェクトの一員として仕事をしていた時でした。突如、第1次オイルショックが襲ってきたのです。日本中がパニックに陥ったことはご存知の通り。プラント完成まであと半年というところまで来ていたのですが、プラント建設を中止することになったのです。狂乱物価ですから完成までにあとどのくらいお金がかかるかわからない。会社としてはやめざるを得なかったのでしょうね。
私としてはショックだった。7~8割までできていて、あと1年ぐらいあれば完成するという状況だったので悔しい思いを抱いたのを覚えています。十数名いたスタッフは皆、散り散りバラバラ。ところが、若いほうから数えて何番めという位置にいた私は残ることになり、未完成のプラントの保守をすることになったのです。
現場にはすでに500 以上の機械が据えられており、ポンプやモーターなどは仮設倉庫にしまわれていました。そうした新古品の機械類や多量の配管材料などを、会社全体で転用して有効活用の道を探るのが私の仕事です。活用先が見つかるまで、機械類が錆びないようにペンキを塗ったり、ベッセル(大型の槽類)やサイロが腐らないように防錆剤を入れたりといったことをやっていました。プラントの建設が中止されたのは1974 年で、1978 年12 月まで毎日そんなことをやっていましたから、つらかったですね。