巻頭インタビュー 私の人材教育論 評価者に必要なのは 個々人の幸せに 責任を持つ緊張感
2002 年10月、不正入札に伴うトップの引責辞任を受けて社長に就任した槍田松瑩氏。
就任と同時に不祥事の原因に考えを巡らせる中で、定量業績の結果だけを重視してきた人事評価システムの問題点に行き着く。そこで、結果よりもプロセスを重視した
人事評価へとシステムを改定。それに伴って、評価者たる管理職の適正登用と教育にも力を注いだ。
また、これと並行して、意気消沈した社内を奮い立たせ、組織の再生を図るために社員とトップとの直接対話を開始。個々人が夢を叶えられる組織へと大きく舵を切った。
人の力を借りて仕事をする大切さ
── 槍田会長は東京大学工学部のご出身ですが、理系で商社へ入社されたというのは意外な感じがします。
槍田
そうでしょうね。勉強の一環で40日間の工場実習もしましたから、技術屋として就職する流れもできてはいたのです。しかし、海外で仕事をしたいという想いもあって、いざ仕事を選ぶ段になると、どうしても商社の仕事が気になってしまったのです。
私が三井物産に入社したのは1967年。当時は高度経済成長期の真っ只中で、就職は学生の超売り手市場でした。まだ大学生の数が少なかったからかもしれませんが、学生1 人に30~40社もの内定が出たものです。そんな状況でも、理系の学部に商社から募集がくるということはなかった。やはり、技術屋が商社マンになるなど、考えられなかったのでしょう。
── 東大では留学生を支援する「アジア学生友の会」というサークルで活動されていたとか。
槍田
私たちの学生時代は、外国というのはまだまだ遠い存在でした。留学生たちと一緒に日本中を旅したり、遊んだり、生活のお世話をしたり……、お互いの国を理解し合いたいというのがサークルの目的です。私には、どんな国なのか知りたい、行ってみたいという外国に対する強烈な興味がありました。当時、商社マンをめざした若者の動機は、ほとんどが海外に出たいという想いだったのではないでしょうか。
── 初めて海外に行かれたのは、いつだったのですか。
槍田
入社して2 年経った1969年でした。当社では、入社後2 年で海外留学の選抜試験を受ける資格を得ることができます。私はこれに挑戦し、第18代米国修業生としてアメリカのダートマス大学へ留学したのです。
大した仕事もしないうちに、給料を貰いながら勉強させてもらったわけですから、幸せな社会人人生のスタートだったと思います。当時、月給は3 万円ちょっと。アメリカでは月に300ドルの手当てが出ました。1 ドル360円の時代ですから、円に換算すれば10万円以上。授業料も会社が払ってくれた。
でも、アメリカで一番驚いたのは、アメリカ人の生活レベルの質の高さでした。当時の日本の生活レベルとの違いに愕然としました。こんな豊かな生活が、日本でもできるようになればいいと思いました。
一方で、アメリカはベトナム戦争の最中でしたから、戦死した学生を偲んでご両親が大学を訪ねる姿を見かけたりすることもよくありました。徴兵におびえる学生の姿など、校内には緊迫感もありました。いずれにせよ、刺激的な2 年間でした。
── 実際にビジネスで海外に赴任されたのは、1977年から1982年、ロンドン支店勤務の6 年間ですね。
槍田
ロンドン支店のプラントプロジェクト部で、課長代理という立場でした。当時、この部署には3 人しか日本人はいませんでしたが、大がかりなプロジェクトを短期間で進めていくわけですから、私は実質的に現場の仕事を任され、英国人の部下と一緒になって、ロンドンから中南米、アフリカへと年中飛び回っていました。
日本国内なら、さまざまな承認を得なければならない仕事でも、海外なら、数十億円規模の仕事であれば自分の判断でどんどん進めていけるわけですから、私は仕事に対する強い手ごたえを実感しました。そして何より、30代半ばという若い私に、三井物産はこんなところまで任せてくれるのだという現実が嬉しかった。
とは言え、同時にたくさんのリスクを抱えるわけですから必死です。社内のいろんな人に、たとえば地域独特のリスクや法律、会計や税務の問題、安全な輸送方法などの知恵を借りながら頑張りました。こうしてその道のプロに話を聞いていくうちに、あらゆる分野でリスクを回避する仕組みが構築されていることがよくわかったのです。若い人材に仕事を任せる一方で、会社にはそれを制御する仕組みがきちんと用意されているんですね。同時に、人の力を借りて仕事をすることの大切さを改めて実感しました。