巻頭インタビュー 私の人材教育論 教え込むのではなく、 本人が自発的に動ける環境をつくる
近年、入学希望者が急増し、都内でも人気の高い中高一貫校となった品川女子学院。
創立85 年という長い歴史を持ち、女性の地位向上、社会進出に大きな役割を果たしている同学院だが、実は20 年ほど前、生徒数の減少、財務体質の劣化などから存続の危機に立たされていた。
その時、同学院は“学校大改革”に立ち上がり、試行錯誤を重ねながら、今日の人気の座を勝ち得ていく。その改革の中心となった現校長の漆紫穂子氏に、経営者として改革の要点について、教育者として人材教育のあり方について聞いた。
学校創立の理念が改革の礎に
── 品川女子学院の改革は有名ですが、振り返ってみて、どのような手法や発想が改革に役立ったのか、まずそのあたりからお聞かせください。
漆
手法というよりは、何をまず大切にするのか――ということを見つめ直し、皆で共有してきたことが良かったのではないかと思っています。柱になったのは「この学校は何のために存在するのか」ということです。
品川女子学院は、大正末期、まだ女性に参政権もない時代に、私の曽祖母漆雅子によってこの品川に開かれた荏原女子技芸伝習所に由来します。
創立者は「いつか女性も、望めば家庭だけでなく外の世界で政治や経済にかかわって生きられる時代が来る」と信じていました。そして彼女は、自分の力のなさを嘆いたり、それを国や男性のせいにしたりすることなく、できることから始めました。いざ社会が女性の力を必要とした時、チャンスをつかむために、女性に社会に認められる力をつけておくことが必要だと考えたのです。そこでまず地域の女性に声をかけて、手に職をつけるような集まりをつくったのが、この学校のそもそもの始まりです。
集まりの仲間が増え、徐々に組織としての体裁が整い始めた頃、大きな事件が起きました。大正12 年の関東大震災です。この時、ケガ人の手当や炊き出しをはじめとする救援活動で活躍したのが、実はこの集まりの女性たちでした。当時の女性はそれぞれが家庭を中心にバラバラに行動していましたが、集まりによって組織化されていたため、連携を取りやすかったようです。
この女性たちによる救援活動によって品川地域では、他地域に比べて災害が広がらなかったと言われています。その御礼に国や町からミシンや木材などをいただき、その資材を使って大正14 年に建てられたのが荏原女子技芸伝習所なのです。
そんなことから、創立以来、私たちが大切にしているのは、「社会で活躍する女性を育てる」という想い。これが当学院の創立理念であり、この理念そのものが当学院が何のためにあるのかを謳っています。これこそが、私たちが最も大事にしなければならないものであり、改革は、この原点に立ち返って考えることから始めました。
学校を運営するうえで大事なことが2 つあります。1 つは、これまで述べてきたように、その学校が何のために存在して、どういう人材を育てていくのか、という存在意義と目標。もう1つは、卒業生の母校を守ることです。当学院には85 年の歴史と2 万人以上の卒業生がいます。私たちには、その母校を存続させていく義務があります。
言い換えれば、前者が“教育”、後者が“経営”。学校には、この両方が備わっている必要があると思うのです。教育内容が良くても存続できなければ意味がないし、存続させるために理念と違うことをやっては学校として意味がない。つまり改革で一番大事なことは、何のために改革するのかという根本をきっちり確認して、それを皆が共有していくことなのです。
生徒側の視点に立ってニーズのズレを解消
── 改革に当たって一番ご苦労されたのは、どのような点でしょうか。
漆
学校も企業と同じく、世の中に望まれるものでなければ存続できません。時代のニーズに合った学校、教育内容でなければ、当学院で学ばせたいという親御さんも出てこないし、学びたいというお子さんもこなくなる。そうかと言って、私たちがそれに迎合して理念から逸脱したものになっても意味がないわけです。
経営難に陥っていた当時、当学院の教育と世の中のニーズとの間にズレがあった。それが改革に着手するきっかけでもありました。
改革を始めた1990 年当時は、女子の進学率が高くなり、男女共同参画社会という言葉が使われ、女性を取り巻く学習、職業環境が大きく変わり始めていた頃です。女性も男性と同じような進学コースを歩んでさまざまな職業に就くようになり、それまでの“しつけ”やマナーなどを中心とした教育だけでは時代に合わなくなってきていました。また、特に首都圏では、公立校から私立校へ、それも中高一貫校への求心力が高まってきていましたが、当学院の場合は中等部が小規模で、完全な中高一貫校とは言えなかった。当時は主にこの2 つの面で、世の中のニーズに対してズレがあったのです。