My Opinion③ 皆が腑に落ちる“思い”を 共有することが 個人と組織に気づきを促す 気づくための方法論SSMベースのアクションリサーチ
大東文化大学の内山研一教授は、日本企業が経営や人材開発に導入している多くのフレームワークや方法論が、アメリカ型の実証主義に基づいてつくられたものであることを危惧する。なぜならそうした方法論を使うのは“人”であるのに、それらが人々の“思い”や“実感”を極力排除したものだからだ。思いがあるところに気づきは起こり、その気づきを振り返り、その中でさらに気づく「気づきの気づき」から行動や革新が起こる。
人々の思いを共有しすくい上げ、そこから現実を再構成していく方法論が「SSM ベースのアクションリサーチ」だ。
気づくとはどういうことか
気づきと認識の違い
最近の経営学では、「見える化」による客観的な“認識”が、経験や実感から触発される“気づき”を駆逐してしまっている傾向にある。たとえば、コンビニのPOS システムなどの、IT 化による売上状況の即時把握は、現場の状況変化をいち早く本社に伝達し、本社の担当者が市場の変化に対応するスピードを上げるのに役立っている。しかしながら、データによる店舗状況の見える化では、その状況変化の潜在的な原因まで把握することはできない。
急に弁当が売り切れて品切れになったのは、近所の空き地で大型マンション工事が始まり、工事業者がコンビニに殺到したからかも知れない。しかし、こうしたことは店舗の人がその場や周辺で実体験・実感して“気づく”ことであり、仮に店にTV カメラを設置して客の識別をしたところで、現場から離れた本社からでは、その原因を把握することはできないのである。
このように、売上結果や店舗のTVカメラ映像というデータは、現実の事物(モノ)的側面のマップとしては客観的で正確かも知れないが、そこで起きている事実(コト)の全体を表現しているわけではない。客観的な対象認識では、このコトにまつわる感じや思いを無視したり、故意に排除したりする。これでは人がかかわる経済活動やサービスなどにおいて気づきの妨げになるばかりか、重大なことを見逃し、時に大変危険な事態を生むことにもつながりかねない。
たとえば最近の医者の中には、コンピュータの画面ばかり見ていて患者の顔をまともに見ない人がいる。患者が必死に自覚症状を訴えているのに、見える化された客観的検査データの認識からだけで診断しようとする。しかし、病気は“人”に発症し、人は身体という“モノ”だけでなく、感覚や気持ちを含めた“コト”を抱いて生きているのだから、表情や顔色から個別に感じられるコトにも気づいて、総合的に判断していくことが大切なのである。そうでなければ、疾患の診断はできても病人の治癒はできないであろう。
コトの世界と経験の知の重要性
このように、モノの“認識”とコトに関する“気づき”は似て非なるもので、我々の普段の生活は、モノとコトが混じり合い浸透し合っている世界である。しかしながら、最近話題になっている脳科学者や他の分野の学者も、そのほとんどがこの世界の事象はすべてモノに置き換えられると思い込んでおり、目に見えるモノの世界ばかりにとらわれている。しかしすでに述べた通り、目には見えないが実感として感じられる“コト”の世界は、排除したり、無視されるべきものではない。
モノとコトの区別は、モノについての知識─科学的客観的知識と、コトに関する知識―経験をベースにした暗黙知や経験知を区別する考えにもつながる。組織論の権威、一橋大学の野中郁次郎名誉教授は世界に先駆けてこれらの知とその共有を重要視する知識創造理論を提唱した。しかし日本人は、そのはるか昔から、経験をベースとするコトの知を扱う方法に長けてきた。