巻頭インタビュー 私の人材教育論 誠実に仕事を重ねることが 強い人をつくり組織を鍛える
小島プレス工業の創業は1938年。トヨタ自動車が設立された翌年である。
以来、小島プレス工業はトヨタ自動車とともに、金属プレス部品、樹脂、電子部品と、さまざまな部品を企画、開発、生産している。
独自のノウハウと技術力を有し、現在、グループ企業は30社。
グループ全体の社員数は6000名を数える。創業者の孫に当たる小島洋一郎社長は、「高い技術力の源泉は人。人材を大切にしてこなければ会社は発展し続けることはできなかった」と話す。
「ともに働く仲間は家族である」という創業からの人に対する想いを伺った。
仕事が自分を鍛えてくれる
――小島社長は創業家出身ですが、入社の際、別の道に進みたいと思われるようなことはなかったのですか?
小島
他の選択肢はまったく視野になかったですね。家業を継ぐというより、自動車の仕事に就ける喜びでいっぱいでした。車が大好きだったのです。学生時代は、仲間と富士スピードウェイ(静岡県のレース場)に通いつめて、スカイラインやトヨタ2000GT などの性能について夜を徹して語り合うことも多かった。
入社したのは、大阪万博が開催された1970年。日本中が、今日よりは明日が必ず豊かになり、誰もが来年は絶対今よりも収入が上がると信じて疑わなかった時代です。人々の自動車に対する憧れや期待も、今よりもずっと大きかった。カーステレオやカークーラーが登場し、自動車が若者のライフスタイルを牽引していた。その自動車産業の現場で働けることを嬉しく思っていました。
――小島プレス工業の設立は1938年。1970年入社といえば、設立して32年目の新入社員ということになりますね。
小島
当社はトヨタ自動車の成長に支えられて発展してきたわけですが、1965年頃には大卒社員が入社してくるようになりましてね。大卒社員を迎えることができるようになると、会社も一人前といった感がありますが、その意味では私が入社した頃は、自動車産業の拡大とともに当社が飛躍できた時代だったと言えます。
小島プレス工業はこの頃、プラスチック加工事業をスタートさせていました。主な仕事の内容は、自動車の計器盤や小物類を収納するコンソールボックスなどの製造です。「車にこういったものがあったらいいな」というものが、具体的にどんどん形になっていくのを目の当たりにできましたから、私にはとても魅力的な仕事でした。仕事にのめり込みましたよ。トヨタと日産がサーキットで熱く対戦していた時代でね。スポーツカーのボディも手がけることができて、嬉しかったなぁ(笑)。
自動車メーカーと部品メーカーが一緒になってモノづくりを始めたのもこの頃からです。「車のファッション性とは」といったことを、トヨタの担当者と話し合ったりすることが非常に刺激になりました。
――法学部出身と伺いましたが、技術的なことについて戸惑いはなかったのですか?
小島
車の性能やメカニズムは、学生時代に素人ながら貪欲に学んでいました。トヨタの担当者から図面について教えていただいて、簡単な図面なら自分で引けるようにもなりました。
入社2 年目には、「トヨタ7(セブン)」というレーシングカーに積むガソリンタンクを私自身が造ることになりましてね。当時、まだ国産のガソリンタンクがなくて、トヨタとしてはどうしてもこれを国産化したいということで、私どもに声をかけてくれたのです。
トヨタ7 と言えば憧れのマシン。そこに積むガソリンタンクの製造を担当できると感激して、夢中で取り組みました。私がチームリーダーとなって2人のメンバーとともにアメリカのメーカーを訪問し、さまざまにタンクを調べさせてもらい、製造までこぎつけた。
このガソリンタンクをレース用として使用するため、JAF(日本自動車連盟)の認可を取得した時のことも強烈な思い出です。日々の仕事に追われていて、トヨタの担当者の方から「明日が提出日だけど、申請書はできてる?」と電話をもらうまで、うっかり申請書のことは忘れていました。
申請書作成に取り掛かったのは、夜の10時頃。資料は用意していたのですが、書類は英語で作成しなければならなかった。これが大変でしてね。結局完成したのは明け方の4 時。それを持って新幹線に飛び乗り、11時にJAF へ提出したのです。
提出できてほっとしていたら、内容についての質疑応答もありましてね。これには焦りました。どう答えたのかあまり覚えていませんが、何とか乗り切った。この時、普段の仕事に真摯に取り組んでいれば、どんな状況になっても慌てずに対応できること、そして、仕事が自分を鍛えてくれることを実感しました。
自分の仕事の重要性をいかに理解しているか
――マネジメントに携わるようになったのはいつの頃からですか?
小島
28歳からです。グループ会社の役員になりました。コンソールボックスに取り付ける小さな部品を作る会社で、従業員は約20人。右肩上がりに増える受注に対して仕事が追いつかず、常に人手不足に悩まされていました。主婦をパートに雇い、何とか作業をつないで製品を作っていたのですが「子どもが病気で今日は出勤できません」と言われることなど日常茶飯事。最重要課題は人の確保だったのです。