歴史に学ぶ 女性活躍 第6回 適材適所の登用術 徳川家康の妻妾たち
日本史上、さまざまな分野で活躍した女性たちの背景や環境を浮き彫りにする本連載。今回は、徳川家康の時代に活躍した女性たちについてである。家康は女性たちに子を産ませるだけではなく、能力や才覚で見て取り立て、実務を任せた。どういう女性たちと、仕事ぶりだったのだろう。
出自や結婚歴にこだわらず
戦国大名に限らず権力者にとって、自分の片腕になり家を継続して次代を担う子どもは、愛情は別としてまず財産である。昔は出産時や幼少期の死亡率が異常に高かったから、子の数は多いほどいい。そのために正妻以外に大勢の側妾をもつのはあたりまえで、「英雄色を好む」はその意味で必然であり、現在の価値観・倫理観で良し悪しを判ずることはできない。
豊臣秀吉は大の女好きで、宣教師フロイスは「極度の淫蕩」「悪徳まみれの獣欲」と評したが、正妻のお禰(ね)(北政所(きたのまんどころ))以外はかたっぱしから出自のいい女や主筋の女に手をつけた。織田信長の妹お市の方の娘淀殿はじめ、信長の娘、前田利家の娘、織田信包(のぶかね)の娘、蒲生賢秀(がもうかたひで)の娘、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の母等々、百姓の小せがれから成りあがった男の征服欲、出世のあかしである。そのわりに子宝に恵まれなかったのは皮肉というしかないが。
家康の場合は違う。その性格からして現実的というか合理的である。彼が生涯にもったのは、正妻2人に側室16人(20人とも)。なした子は11男5女(うち2男2女は早世)。当時としても稀有な子福者である。側室に子持ちの後家だった女が多いのも、経産婦なら子を産めるという、実利的な考えゆえだった。
むろん子を産めなかった側室たちもいるし、産んだのに死なれてしまったり、お産で母子ともに死んだ人もいる。お愛の方は、秀忠と忠吉の二子をもうけたのに、秀忠が将軍になるとは夢にも思わないまま、28歳の若さで没した。2人の正室、最初の築山殿の悲劇はつとに知られているし、2番目の旭は豊臣秀吉の妹で、45歳になって夫や子と無理やり別れさせられ、人質同然で送り込まれたお飾り妻だった。
側室にも証人(しょうにん)(人質)として差し出され、寵愛薄いままひっそり生きるしかなかった女もいる。その一方で、能力や資質を認められ、それに見合った役割を与えられたケースも多いのも、他の大名にはほとんどない特徴である。
鋳物師の後家 お茶阿(ちゃあ)の方
遠江国金谷宿の鋳物師の夫を代官に殺害された彼女は、夫の先妻の2人の息子と幼い娘を女手一つで育てていたが、鷹狩中の家康の馬前に飛び出し、夫の仇を直訴して出た。その勇気と度胸に、家康は浜松城へ連れ帰って湯殿の侍女として使ううちに、寵愛するようになった。
美貌なうえに非常に聡明であったため、まったくの無学無教養から、家康の秘書役を務めるまでになった。奥御殿のとりしきりを任せられ、領内の民や寺社からの訴えに対しても的確な処置をしたという。出しゃばりすぎず、こまやかな配慮がうかがえる書状が残っており、筆跡も当時の女性としてはすこぶるしっかりした立派なものである。六男辰千代と七男松千代を産んだが、松千代は6歳で夭折。辰千代はのちの松平上総介忠輝(かずさのすけただてる)である。
忠輝はとかく不行跡のきらいがあって家康に罰せられたが、お茶阿がそれで疎まれることはなく、家康が亡くなるまで駿府城で仕えた。
卓越した政治力で外交 阿茶局(あちゃのつぼね)
表舞台で活躍したのが阿茶局である。主の寵愛もしくは信任を得て、他から抜きんでて出世することを出頭(しゅっとう)というが、彼女は側室中「殊(こと)に出頭せし人」と評された。
彼女もまたお茶阿の方同様、子持ちの後家だった。武田信玄の家臣の娘から今川旧臣神尾(かんお)氏に嫁ぎ、一子をもうけたが死別。2年後の天正7年(1579)、25歳で家康の側室になり、6歳の子もその年出生したばかりの家康の三男長丸(ちょうまる)(後の2代将軍秀忠)の小小姓にさせた。