OPINION2 感性は努力で磨ける! 美的経験と知的な枠組みで “洗練された人”になる
「感性」といえば、生まれ持った才能のように捉えられがちだ。
だが、本当にそうだろうか。
大人になって感性を磨く方法はあるのか—
感性と深いつながりを持つ美学の第一人者、國學院大学教授の西村清和氏に話を聞いた。
AIになくて人間にあるもの
最近、話題のAIは進化が目覚ましく、特定の分野では人間を超えたともいわれている。しかし、AI と人間が決定的に違うことがある。人間には感性があるが、AIにはないということだ。
持ち運び可能な物体であるAIは「今、ここ」、つまり自分が今、置かれている場所という「状況」を持たない。AIが世界のトップ棋士に勝ったことが話題になったが、もし対局中に突然、会場が火事になったとしても、AIは逃げることも立ちすくむこともせず、淡々と対局を続けようとするに違いない。逃げることができたとしても、それは大量のデータから最善の対策を計算して反応した結果であって、「今、ここ」に危険が迫っているという恐怖を感じて行動するわけではない。
今後、技術が進歩して、感情を持つ鉄腕アトムのようなロボットが登場すれば話は変わるが、今の段階ではAIには感性はない。つまり、AIは感性を要求されるような局面での判断や行動はできないということだ。感性は人間だけが持つ強みなのである。
プラスチックの木への違和感
感性とは何かを考えるうえで、興味深い話がある。
「もしも街路樹が全部プラスチックの木に変わったとしたら、我々は美的に受け入れることができるだろうか」。
これは1970 年代、自動車の排気ガスが問題になっていたアメリカで、実際に起きた論争だ。どうせ自然の木は枯れてしまうのだから、プラスチックの木で何が悪いのかと言う人もいれば、明らかにおかしいと言う人もいた。結論から言えば、プラスチックの木と分かった途端に、自然の木と同じ美的経験、つまり自然の木に対して感じるのと同じ感情を味わうことはできない、と私は考えている※。
たとえ技術が進歩して、自然の木とそっくりな木が製造できるようになったとしても、プラスチックの木は生きていない。当然、根から水分を吸い上げていないし、その緑は顔料で作り出された色だ。
それを知ってしまった以上、我々は自然の木と同じ目で偽の街路樹を見ることはできないはずだ。つまり、その木が生きているかいないかという知識が、我々の感じ方、すなわち感性レベルの経験に決定的な違いを及ぼすということだ。ここからいえるのは、感性とは一定の知識や理論、「知性」に根ざしたものだということである。
※ 『プラスチックの木でなにが悪いのか』(西村清和著、勁草書房)で、詳しく解説している。