歴史に学ぶ 女性活躍 第4回 6人のもの書く女たち 平安王朝文学の担い手たち
さまざまな分野で活躍した歴史上の女性たちの背景や環境を浮き彫りにする本連載。今回は紫式部、清少納言、和泉式部などの平安時代の女流作家たちを取り上げる。彼女たちはどんな知識や情感をもって世界観を綴り、そのことは彼女たちに、どんな意味と成長をもたらしたのだろう。
「女が読む」から「女が書く」へ
史書や漢文体の散文ではなく、仮名文字で書かれたフィクションである物語が誕生したのは平安時代初期、10世紀初頭。紫式部が『源氏物語』の中で「物語の出(い)で来(き)はじめの祖(おや)」と呼ぶ『竹取物語』はじめ、美男の在原業平(ありわらのなりひら)が主人公の『伊勢物語』など、ひたすら甘美な男女の恋愛ものや、虫や動物を擬人化したおとぎ話ふうのもので、書き手は男性知識人、身近な女性たちに読み聞かせるためのお遊びにすぎなかった。
だがやがて、そんな現実味のない子ども騙しのつくりばなしでは満足できない女たちが出てきた。たとえば『蜻蛉(かげろう)日記』の作者藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)は、夫藤原兼(かねいえ)家との夫婦生活の苦悩と葛藤を赤裸々に書き、書くだけでなく、人に読んでもらいたいと考えるようになったのである。
男性の書き手の中からも次第にそうした女性読者の声を取り入れて『宇津保(うつほ)物語』や『落窪(おちくぼ)物語』といった作品が出てきたが、しょせんは男性視点の産物であり、女性の心の琴線に触れるようなものではなかった。女を漁るだけの色好みの男や、儒教的道徳観にどっぷりつかった謹厳な男がいくら女性にやさしく描かれていても女は魅力を感じないし、それに翻弄されるだけの悲劇のヒロインでは共感をおぼえようがない。
もっとリアルな、現実の人間の心を描いたものが読みたい、できることなら自分で書きたい――。若い頃の紫式部もそんなジレンマをかかえた物語好きの一人だったろう。
紫式部の理性と自意識
紫式部は父方も母方も中流の受領(ずりょう)階級だが、文人や学者を輩出した家系で、家には蔵書が溢れており、十代の頃から古今の漢籍や史書、歌集を読み耽り、父の藤原為時(ためとき)から漢学を教えられて育った。生母が早くに亡くなり、年の近い実姉も亡くなったため、独身のまま一家の主婦役をしなくてはならず、父が越前守に任じられて赴任した際にも同行した。
帰京後、当時としてはそうとうな晩婚の30歳近くで父親ほども年上の藤原宣孝(のぶたか)と結婚。一人娘をもうけるも、数年で夫と死別。将来になんの希望も抱けない寡婦生活の中で『源氏物語』を書き始めた。先述の道綱母は母方の遠縁にあたり、そのつてで『蜻蛉日記』を読み、衝撃を受けたのも執筆の動機のひとつであったかもしれない。
少女期からの豊富な読書経験と、それによってつちかわれた歴史認識や社会や人間に対する洞察力。甘ったるい恋愛小説や光源氏の栄華を描くだけの物語にはなりようがなかった。それが親しい友人たちの間で評判になり、やがて、いまをときめく藤原道長の耳に達したのだった。
道長から娘である一条天皇中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)(18歳)の女房=教師役にと望まれ、当時父は失職状態、弟もまだ先の見通しが立たない状況だったから、彼らの出世の援護になると考え、出仕を決心したのであろう。
それになにより、この大作を書き進めるためにはどうしてもパトロンが必要だった。全54帖、登場人物4百数十人、四代の帝の70有余年にわたる王朝絵巻、一大叙事詩である。400字詰め原稿用紙換算で実に2千5百枚。紙、筆、墨などはきわめて高価で、支援者無くしては不可能だった。物質的援助のみならず、和歌のやりとりや『紫式部日記』に垣間見える状況からして、道長との間に男女関係があったとする説もある。