歴史に学ぶ 女性活躍 第3回 日本史上初のキャリアウーマン 橘 三千代
日本史上、さまざまな分野で活躍した女性たちの背景や環境を浮き彫りにする本連載。今回の主人公は、奈良時代に二代の天皇を育てた女傑である。下働きから徐々に頭角を現し、中臣鎌足の息子、藤原不比等の後妻にもなった彼女は、いったいどんな人物だったのだろうか。
河内国の低い出自から
源氏・平氏・藤原氏・橘氏――権勢を誇ったこの四名族をさして「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という。そのうちの橘氏はたったひとりの女性から始まった。
県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)――門地によらず自分の実力で這い上がり、ついには「大夫人(おおみおや)」(天子の生母)と崇められる頂点にまで達した女傑である。
三千代が生まれ育ったのは河内国古市郡尺度(ふるいちぐんしゃくど)郷(現在の大阪府羽曳野市)。広々とした農耕地にめぐまれ、誉田陵(ほむだのみささぎ)(伝応神天皇陵)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓とされる白鳥陵(しらとりのみささぎ)など巨大古墳が点在する、早くから拓けた地である。朝廷の直轄地である県(あがた)や屯倉(みやけ)が数多くあり、犬養氏は番犬を育成し駆使してそれを警護管理する伴造(とものみやつこ)氏族で、いわゆる卑姓である。
河内はまた、早くから朝鮮半島や中国からの渡来人が数多く定住した地である。ことに西文(かわちのあや)氏は飛鳥の東漢(やまとのあや)氏や秦(はた)氏とならんでもっとも早い時期に渡来し、文筆と記録、徴税や出納の管理を以て朝廷に仕え、支族の白猪(しらい)氏、船(ふな)氏、葛井(ふじい)氏、津(つう)氏らは海運と通商で栄えていた。
彼ら渡来氏族は仏教を熱心に信仰し、それぞれの氏寺は学問教育の場所でもあった。当時の仏教は信仰よりむしろ、哲学思想、漢学、堂宇(神仏を祭る建物)や伽藍の建築、灌漑などの土木、天文学、機織、養蚕等の先進技術である。
そうした異国伝来の文化と技術が共存する、開明的な進取の気風の中で育ったことは、三千代の人格形成に多大な影響を与えたであろう。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に出仕
彼女がいつ二上山を越えて飛鳥の宮に出仕したかはっきりしないが、天武(てんむ)8年(665)に制定された氏女貢進(うじめこうしん)の制を期に、15歳前後だったか。大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇)が兄の天智(てんぢ)天皇の子、大友(おおとも)皇子と戦って勝利をおさめた壬申(じんしん)の乱の際、一族の県犬養大侶(おおとも)に軍功があったことも出仕の足掛かりになったであろう。
地方諸国の大領(たいりょう)(旧支配氏族)が恭順の証しとして貢進する「采女(うねめ)」は、天皇や皇子が妻妾とするのが前提のため形容端正(かおきらきら)しき者――容姿端麗が条件だが、中堅氏族の娘である「氏女」のほうは宮廷の下級女官として天皇や皇子の宮で働く働き手である。三千代も最初は女孺(にょじゅ)とよばれる末端の下働きからのスタートだったろう。
女性の多い職場で頭角を現わすのは並大抵のことではない。骨身を惜しまず働き、他の者がいやがる仕事も代わってやる。コミュニケーション能力が高く、上司や同僚に好かれて孤立しない。主人への忠誠心が篤く、口が固い。たとえ野心的で上昇志向が強くても、それを表に出さない賢さも絶対に必要だ。三千代はまさにそういう女であったろう。
折しも時代は大きな変換点を迎えていた。天武12年(684)、天武天皇はかねて計画していた八色(やくさ)の姓(かばね)の氏姓制度を再編し、律令の編纂事業と史書の編纂を正式に開始。国際社会に名乗りを上げ認知させるため、超大国唐国の制度を積極的に導入する。
また、朝鮮半島の情勢も百済国滅亡以来、新羅や高句麗両国の関係が緊迫している。そういう国際情勢を的確に把握し判断して外交する国家戦略が是が非でも必要なのを、末端の三千代も肌で感じたはずである。