歴史に学ぶ 女性活躍 第1回 なるべくしてなった女領主 井伊直虎
本連載は、日本史上さまざまな分野で活躍した女性たち
に焦点を当て、環境や役割、経験や教育といった、才覚
を発揮する要素から、現代にも通じる女性活躍推進の知
恵を、作家の梓澤要氏が導き出す。第1回目は今、話題
の直虎である。彼女が領主になれたわけとは。
無名の女領主
平安時代から西遠州(静岡県西部、現浜松市北区)で勢力を張っていた国人(こくじん)、井伊氏が戦国大名たちの覇権争いのただ中で滅びかけた際、尼僧の身でありながら当主となり、知略と勇気を以て生き延び、徳川幕府きっての雄藩彦根35万石に押し上げたキーパーソン、それが次郎法師直虎(じろうほうしなおとら)である。
国人は国衆(くにしゅう)ともいい、自領を有する領主でありつつ大名に従属してその支配を受ける。いってみれば「支配する側であり支配される側でもある」二重構造である。
わたしが彼女の存在を知ったのはいまから15年ほど前。井伊家歴代当主の系図に「直虎」の名はなく、その存在を示すものは江戸時代中期の享保(きょうほ)年間(八代将軍徳川吉宗のころ)にまとめられた『井伊家伝記』や地元の寺社に伝わる古文書や伝承にも「直盛(なおもり)息女」もしくは「次郎法師」とあるだけで、地元でも郷土史研究家以外にはほとんど知られていなかった。
全国どこの地方にも存在した武家氏族の興亡と淘汰の歴史の一例であり、無名であるが故に貴重で普遍的な意味がある。そう思い、歴史雑誌『歴史読本』(新人物往来社)で2004年6月から1年4カ月にわたって連載、終了後の2006年1月に単行本として上梓したのが『女(おなご)にこそあれ次郎法師』である。
人生を変えた離別と出家
直虎は当時の井伊本家当主、井伊直盛の一人娘として生まれた。実名も生年も不明。ゆくゆくは親族の亀之丞(かめのじょう)(のちの井伊直親(なおちか))を婿養子に迎えることになっていたが、亀之丞の父が今川氏に対する反逆を疑われて殺害され、9歳の亀之丞も命を狙われて信州南伊那に逃れ、その後10年間、生存と行方が秘された。
もしも亀之丞と引き裂かれることがなかったら、平穏な人生を送れたはずだった。当時の武家の女は政略結婚で遠方や他国に嫁ぐのもあたりまえだった。実家と婚家の関係が悪くなれば、夫婦仲が睦まじかろうが子がいようが無理やり離縁させられ、また次の政略結婚を強いられる。政略結婚はかならずしも非人道的な犠牲者という意味合いばかりでなく、実家と婚家を結ぶパイプ役の使命を担う能力を認められてのことだが、生涯に二度三度と本人の意思を無視して結婚させられるケースも珍しくなかった。
しかし彼女(直虎)の場合は、家付き娘として親の庇護のもと、生涯生まれ故郷の井伊谷で暮らしていける恵まれた境遇を約束されていた。
少女時代までの彼女は、自由闊達な、もしくは甘やかされたはねっかえりのわがまま姫であったかもしれない。でなければ、おっとりした奥手の姫だったか。いずれにせよ、自分が一族と領国の命運を背負って奮闘する立場になろうとは想像もしていなかったはずである。