J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2017年09月号

歴史に学ぶ 女性活躍 第1回 なるべくしてなった女領主 井伊直虎

本連載は、日本史上さまざまな分野で活躍した女性たち
に焦点を当て、環境や役割、経験や教育といった、才覚
を発揮する要素から、現代にも通じる女性活躍推進の知
恵を、作家の梓澤要氏が導き出す。第1回目は今、話題
の直虎である。彼女が領主になれたわけとは。


梓澤 要(あずさわ かなめ) 作家
1953 年静岡県生まれ。明治大学文学部史学地理学科卒業。
1993 年、『喜娘』で第18 回歴史文学賞を受賞。作品執筆の傍ら、2007年から東洋大学大学院で仏教学を学ぶ。著作に、『橘三千代』『阿修羅』『遊部』『女にこそあれ次郎法師』『捨ててこそ 空也』『光の王国』『荒仏師 運慶』など。最新刊は『万葉恋づくし』(新潮社)。

無名の女領主

平安時代から西遠州(静岡県西部、現浜松市北区)で勢力を張っていた国人(こくじん)、井伊氏が戦国大名たちの覇権争いのただ中で滅びかけた際、尼僧の身でありながら当主となり、知略と勇気を以て生き延び、徳川幕府きっての雄藩彦根35万石に押し上げたキーパーソン、それが次郎法師直虎(じろうほうしなおとら)である。

国人は国衆(くにしゅう)ともいい、自領を有する領主でありつつ大名に従属してその支配を受ける。いってみれば「支配する側であり支配される側でもある」二重構造である。

わたしが彼女の存在を知ったのはいまから15年ほど前。井伊家歴代当主の系図に「直虎」の名はなく、その存在を示すものは江戸時代中期の享保(きょうほ)年間(八代将軍徳川吉宗のころ)にまとめられた『井伊家伝記』や地元の寺社に伝わる古文書や伝承にも「直盛(なおもり)息女」もしくは「次郎法師」とあるだけで、地元でも郷土史研究家以外にはほとんど知られていなかった。

全国どこの地方にも存在した武家氏族の興亡と淘汰の歴史の一例であり、無名であるが故に貴重で普遍的な意味がある。そう思い、歴史雑誌『歴史読本』(新人物往来社)で2004年6月から1年4カ月にわたって連載、終了後の2006年1月に単行本として上梓したのが『女(おなご)にこそあれ次郎法師』である。

人生を変えた離別と出家

直虎は当時の井伊本家当主、井伊直盛の一人娘として生まれた。実名も生年も不明。ゆくゆくは親族の亀之丞(かめのじょう)(のちの井伊直親(なおちか))を婿養子に迎えることになっていたが、亀之丞の父が今川氏に対する反逆を疑われて殺害され、9歳の亀之丞も命を狙われて信州南伊那に逃れ、その後10年間、生存と行方が秘された。

もしも亀之丞と引き裂かれることがなかったら、平穏な人生を送れたはずだった。当時の武家の女は政略結婚で遠方や他国に嫁ぐのもあたりまえだった。実家と婚家の関係が悪くなれば、夫婦仲が睦まじかろうが子がいようが無理やり離縁させられ、また次の政略結婚を強いられる。政略結婚はかならずしも非人道的な犠牲者という意味合いばかりでなく、実家と婚家を結ぶパイプ役の使命を担う能力を認められてのことだが、生涯に二度三度と本人の意思を無視して結婚させられるケースも珍しくなかった。

しかし彼女(直虎)の場合は、家付き娘として親の庇護のもと、生涯生まれ故郷の井伊谷で暮らしていける恵まれた境遇を約束されていた。

少女時代までの彼女は、自由闊達な、もしくは甘やかされたはねっかえりのわがまま姫であったかもしれない。でなければ、おっとりした奥手の姫だったか。いずれにせよ、自分が一族と領国の命運を背負って奮闘する立場になろうとは想像もしていなかったはずである。

出家したのが何歳の時だったか不明だが、おそらく十代前半、当時の女性が結婚適齢期を迎える年齢だったろう。亀之丞がいつか無事に帰ってきて自分と結婚できると信じていて他の男と結婚させられるのを拒否するためだったのか、それとも、彼は死んだと諦めて菩提を弔うためだったか、真実は想像するしかないが、前述の『井伊家伝記』によれば、少なくとも親や周囲に強制されてではなく彼女自身の強い意思だった。

井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)(当時は龍泰寺(りゅうたいじ))の南渓瑞聞(なんけいずいもん)禅師は、そこで、井伊本家の惣領(そうりょう)の通称である「次郎」と出家者である「法師」とを合わせて「次郎法師」と名づけた。

「そなたは女にこそあれ井伊家惣領なれば」――その名がその後の彼女の人生を決定づけることになったのだった。

成長期の修行と勉学

次郎法師は、最初は半分在俗であったが、その後ちゃんと修行して正式に得度し、月船(げっせん)(泉)祐圓尼(ゆうえんに)という法名を与えられた。

龍潭寺は臨済宗妙心寺派に属する東海地方きっての学問寺で、師である南渓瑞聞は今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にした際、葬儀の導師として招聘されたほどの高僧である。

当時の禅宗寺院の修行や教育がどのようなものか、詳しいことはわからないが、坐禅や徹底した清掃などの日々の修行のほかに、仏教経典や論書の研学、さらに日本と中国の歴史、天文学、土木、建築工学、治水、鉱物学、算術、医学薬学、兵法にいたるまで、古今の漢籍から学んだ。和漢の古典文学、和歌、漢詩も必須で、書画、茶道、立花(華道の様式の一つに堪能な禅僧も数多く、公家とも対等につきあえる知識人中の知識人知的エリートである。戦国大名の多くが禅僧をブレーンに置き、軍師として重用したのも、そのノウハウが単に机上の知識にとどまらず領国経営に欠かせない実学だからであるたとえば武田信玄は禅僧から信玄堤や鉱山発掘などの技術を学び、領国経営に駆使した。また僧侶は基本的に自由に諸国へ旅ができるため、他国との交渉役に最適だった。

臨済宗の場合はそれらの修行と勉学に加えて公案(こうあん)という修行がある。師が弟子に先人の言行などから不可解な難問を与えて考えさせる。回答を持ってきても容易に認めず何度もノーと突き放す。深く思索させることで偏った思い込みや偏見、執着心を排し、ものごとを客観的に公平に見つめ、判断するすべを覚えさせて導く。いわゆる禅問答である。

彼女はいまの小学校高学年から中学生くらいの、なにごとも旺盛に吸収し、柔軟に受け止められる年齢からそういう訓練と勉学に励んだのである。当時の武家の女性にふつうは必要のない学問や知識を学ぶことで、広い視野を持つことができるようにもなった。そのことが飛躍的に精神的成長を遂げさせたことは容易に想像できる。

打てば響く利発さから、なにごとも簡単にわかった気にならず、愚直なまでに粘り強く、深く考える思考力へ――。絶えず自分自身の心の奥底を冷静に客観的に見つめ、一時の感情で言動がブレない。他者の気持や立場を察することができる思慮深さ、周囲の声を注意深く真剣に聴く耳。加えて、仏道者の慈悲の心と利他の精神を併せ持つ、稀有(けう)な女性へと育っていったはずである。

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