IC インタビュー②営業・販売系 世界を放浪した豪腕プランナー。 顧客本位に立った仕事をするには、ICという立場がベスト

金融自由化の流れのなかで、銀行や証券会社、さらには郵便局までが競って金融商品を扱うようになった。しかし、個人が数多い金融商品を的確に理解し、最適の商品を選ぶことは難しい。それには、相当な手間と知識、判断力を必要とするからだ。そこで登場するのが、ファイナンシャルプランナー。いわば「財政上のホームドクター」と呼ぶべき存在だ。今回紹介する大坪勇二氏は、新日鐵、そして伊藤忠商事を経てこの業界へと転職してきた異色組。現在はICのファイナンシャルプランナーとして、群を抜いた成績を収めている。その大坪氏にICとなるまでの経緯、そしてICとして成功した秘訣を伺った。
新日鐵、伊藤忠商事での「スタッフ部門」の経験が現在に生きる
大坪さんの経歴を見ますと、最初は営業・販売系の仕事に就いていたわけではないようですが。
大坪
はい。大学は九大の経済学部で、最初は新日鐵に就職しました。当時はバブル経済前の円高不況の頃でした。同期は180 人くらいでしたが、そのうち60 人が東大、41 人が京大。しかも、理学部・工学部が採用の中心で、九大の文科系は私1人という、かなり“異色”の存在でした。いわゆる“重厚長大”企業のなかで、居心地はあまりいいものではありませんでした(笑)。
大学時代、1年間休学していますね。
大坪
生来の“ラテン気質”があったせいか、中南米を中心に世界各国を自由気ままに放浪しました。だから正直、就職活動はあまり芳しいものでありませんでしたが、そんななかで、新日鐵が「君は元気がいい!」と採用してくれました。いま思うと、非常に懐の深かった会社だと感謝しています。
でも、自分とは合わなかったと。
大坪
私としては海外に出かけていく仕事がしたかったのですが、それはできなかった。都合、日本で経理を7年間、人事を2年間やることになりました。職場も、経済合理性を持ってハイスピードで仕事をするような風土ではありませんでした。
ちなみに、人事の仕事は伊藤忠商事へ出向したときのこと。アジアにソリューション事業を展開していくために伊藤忠商事と合弁会社をつくり、そこへの出向だったわけです。しかし、担当業務は人事でしたから勤務地は伊藤忠商事の本社。結局、海外への夢は叶いませんでした。
ただこれも、当時、私が社内のMBA派遣留学生の試験に最終選考で落ちたことを不憫に思ったのでしょう。海外に接点のある仕事ということで、出向させてくれたのだと思います。本当、懐の深い会社です(笑)。とはいえ、現在のお客様は経理や人事・総務を中心としたスタッフ系の方が多く、その意味では20代の頃、こうしたバックヤードの仕事を経験したことは、ビジネスの話を進めるうえで非常に役に立っています。
偶然、ソニー生命の広告を見て、転職を決意する
そして、ソニー生命へと転職されました。この経緯はどのようなものだったのでしょうか。
大坪
伊藤忠商事に出向していた頃、たまたま『日経ビジネス』を読んでいたら、ソニー生命で生き生きと働く人々の掲載された記事が目に飛び込んできました。そこでは、個人事業主のスタイルですべて自分が責任を負い、1人ひとりがプロフィットセンター(BSユニット)ということで「独立企業家」として働いているという内容が書かれていました。直感で、「これは面白い。やりがいがありそうだ」と思いました。いままでの仕事になかったものがあるとピンときました。
ここで、何か自分のなかに動かされるものを感じたわけですね。
大坪
しばらくして、レンタルビデオ屋に行ったとき、無料ビデオが置いてありました。何気なく手に取ると、「ソニー生命の挑戦」とあります。この偶然に「まさかっ?」と思いながら、借りて見てみたところ、ソニー生命の創業の理念を故・盛田昭夫氏が熱く語っているではありませんか。そして、最後にフリーダイヤルが記してありました。
このビデオが、背中を押した格好ですね。
大坪
ええ。翌日、すぐに電話しました。そうしたら、ソニー生命の本社が青山一丁目にあると。何と伊藤忠商事から、歩いて数分の距離にあるわけです。さっそく「明日の昼休みに寄ってください」と言われました。急なことで履歴書も持たずに、手ぶらで行ったその場で、転職することを決めてしまいました。このとき、31歳になっていました。