J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2011年11月号

論壇2 ~水野忠辰の悲劇に学ぶ~ 改革を進める組織幹部が留意すべきもの

古今東西、さまざまな組織が問題に直面し、紆余曲折を経てきた。その紆余曲折が「歴史」だとすれば、失敗にも成功にも学ぶところはある。本稿では、中でも江戸時代中期、三河国岡崎藩(現在の愛知県東部)で起こったある失敗例から、組織改革とリーダーのあり方について、現代にも通じる教訓を学びたい。

上床 訓弘(うえとこ くにひろ)
T・M・D・グループ 代表取締役
1944年大阪府生まれ。関西大学法学部卒業後、経営指導団体、総合小売業で教育・研修業務を担当。独立しT・M・D・グループを設立・法人化。経営戦略の策定・展開、マネジメント力開発、リーダーシップ強化を専門とする。特にこの十数年間「シントロピー経営の実現」を重点テーマとして支援指導を展開。

1.はじめに

この事例は、江戸時代中期に現実に起きたことである。当時、全国諸藩とも財政が極度に逼迫し、それぞれ行財政改革が強く求められていた。これに対して各藩ともさまざまな取り組みを行っていった。その結果当然ながら、成功した藩もあり、失敗した藩もあった。すでによく知られている上杉鷹山(ようざん)が藩主であった米沢藩は、改革に長い年月がかかったが、成功例として高く評価されている。ここに取り上げる岡崎藩は、失敗した例である。改革を進めていった藩主、水野忠辰(ただとき)は途中で挫折して、悲劇的な死を迎えた。当時も、長期間にわたり経済的低迷が続いていた。幾度となく襲う地震や冷害、さらにイナゴの大群による被害もあり、農業の生産性は落ち込んでいた。おしなべて全国諸藩とも領民全体の意欲・活力が減退し、閉塞感に覆われていた。私見として、多くの藩で藩自体がビジョン・方向性を見失っており、領民それぞれもそれを掴みあぐねていたからだと解釈している。さて、現代の企業や自治体、学校など各種法人は、この事例の時代背景や具体的な問題状況に、いろいろな違いがある。しかしこのような基層部分では相通じるものがある。これらの状況を打開するために、組織幹部や構成メンバーはいかにあるべきか、またその過程で問題や課題に直面した時いかに行動すべきかについての「解」は、時代が変わってもほとんど違いはないと感じる。組織自体が状況の変化に適応して存続発展でき、また構成員全員がビジョンや一つの方向を実現するために一丸となって取り組める状態にするにはどうしたら良いのか。それを明確化し伝承し、さらにノウハウの蓄積を、たえず続けていかなければならないと考えている。経営幹部の方々は、改革を進めていくうえでの留意点をこの事例から掴み取り、実際の場面で展開していただきたい。また、幹部を輔佐する管理者の方々は、その幹部の改革を適切にサポートするために、この事例から抽出した要点を、大いに具申し自らも実践してほしいと考え本稿を寄せる。

2.祖父からの薫陶と改革の開始

江戸時代中期、三河国岡崎藩は6万石、藩士の数は約1300人という小藩であった。しかし藩祖は徳川家康と血のつながる家柄で、水野家は譜代親藩の名門として、将軍家から代々重用されていた。特に第4代の藩主、水野忠之は、早くから認められて、奏者番、若年寄、京都所司代などの要職を歴任した。やがて享保2年(1717)9月に老中に就任した。これは第8代将軍、徳川吉宗の「享保の改革」の開始時である。忠之はしかもこの時、御勝手方老中、現在の財務大臣として吉宗を支えていった。彼はこの職務を13年間務め上げ、享保15年(1730)6月に退いた。彼はその後隠居し、藩主の座を40歳の息子、忠輝に譲った。しかし忠輝は7年後に死去した。これを継いで忠辰が第6代の藩主となった。元文2年(1737)9月、この時彼は満13歳であった。忠辰は忠輝の長男として、享保9年(1724)4月22日に生まれた。彼は幼い時から聡明で、祖父、忠之から深く愛情を注がれ、薫陶を受けた。忠之は隠居後、特に忠辰を近くに呼んで彼に語り聞かせた。長年仕えてきた吉宗の人となりや改革の進め方のすばらしさなど、繰り返し語った。また人々を統率することの重要性や、人の上に立つ者のあり方などを忠辰に教えた。忠辰は忠之の話をよく聞き、自らさらに勉学に励んでいった。同時に、財政状況の厳しい藩の実態についても話を聞き、自分でもさまざまに調べを進めた。歴代の藩主が幕府の要職に就いていたため、藩からの資金の持ち出しも多かった。さらに度々の災害が農村を襲い、藩の財政はひどく逼迫していた。忠辰は藩を財政的により良い状態にすることが、自分の使命だと心に強く誓った。そして側近の若い侍たちと、改革を行ってゆくための、工夫を凝らしていった。寛保2年(1742)、忠辰は江戸から国元に初めて入国した。本格的に改革を進めることになったのである。そして早速、徹底した倹約政策、農村の復興、産業の奨励策を打ち出し、具体的に実施していった。これらを遂行するために、彼は藩の中・下級武士を大胆に登用し、分担させ実践させていった。それまで俸禄、昇進、家督相続は、家格、家柄で全て決められていた。しかし忠辰は本人の役務能力、実績、態度に応じてこれを決めることとし、それぞれの役筋に登用した。また自分の側近も、新たに多くの者を任命した。彼らは忠辰が江戸藩邸にいた頃から、彼の身辺に仕えてきた者たちであった。忠辰は改革を進めるうえで、忠之に教えられた将軍・吉宗の、「仁の政治」を展開し、領民全員の士気を高めることを、政策推進の基礎において改革をスタートしていった。彼は次のことを進めていった。まず、「半知借り上げ分」の返済。半知借り上げとは、藩士たちへの俸禄の半分を藩が借り上げる形にして、藩士にその半分を支給するのである。借り上げとはいいながら、それを返済する余裕や意思はほとんど無い。忠辰はこの半知借り上げ分の返済を特に下級の藩士に厚く行った。さらに「農民からの租税の5分減免」。5分とは5%である。岡崎藩の当時の租税率がどうだったのか具体的な数字は定かでないが、それまで5公5民ということであれば、税金が45%、農民たちの取り分が55%になる。農民たちにとってこれは極めてありがたいことである。忠辰はその後「心付候儀共相談之書付」を発表した。この中で次のように記していた。「仔細な問題や課題については、各担当役人の判断で処置してよい。それぞれが礼と徳を重んじ、賞は厚く罰は軽くせよ。役務態度、実績の良い者には褒美をとらせ加増を行う。従来、下級役人が小頭や徒士目付となって精励しても、17俵以上には加増されなかったが、さらに加増する。年老いた中間(ちゅうげん)に暇を出して、その本人を餓死させるなどしてはならない」忠辰は改革に着手する以前から、自らも率先垂範していた。特に質素倹約を徹底し、年間を通じて木綿の服を着用することや、1日の食費を百文以下で一汁一菜を通し、奢侈品を一掃することなどを行っていた。これらも将軍・吉宗の実践したことであり、それを踏襲したのだ。忠辰のこれらの努力は功を奏し、数年経った段階で財政は見違えるように好転した。借金を全て返済し、さらに5万両の蓄えができたのである。中・下級の藩士たちから彼は強く支持された。また農民たちからも大歓迎された。忠辰は大きな自信を持って改革に取り組んでいった。

3.守旧派老臣たちの反発・抵抗

これらに対して家老や年寄など老臣たちは、快からざる気持ちを抱き、忠辰の改革が進展するに従って、反発を日に日に強くしていった。「わが藩の由緒ある格式を根底から覆す由々しき政治である」「いやしき若侍どもを身辺におき、奴らの意見のみを取り上げておる」「農民どもを甘やかしておる。いずれ大ごとが生ずることになる」「我々重職の意見を、全く聞こうとしておらぬ。我々の立場をどう考えておるのか?」彼らは譜代の家老・年寄として、この現実を見過ごすことはできなかった。自分たちの存在を否定されることにつながるからだ。そこで密かに連絡し合い、この改革にどう対抗すべきかを話し合っていた。この状況の中で延享3年(1746)、忠辰は人事異動を発令した。改革をさらに進展させるためである。拝郷源左衛門を国元から江戸詰へ、松本頼母を江戸詰から国元へ、その他主な老臣たちに配置転換を命じた。しかしこの二人を筆頭に、全員がこれを拒否した。そこで忠辰は、この両名には隠居を命じ、それぞれの息子に家督を相続させた。本来ならば、老臣たちのこの「拒否」は上意に対する反逆であって、切腹の対象となる。さらに家名断絶、家禄没収という処罰に相当する。忠辰のこの処置は、「仁の政治」を実現したいとの意思決定であった。その翌年、今度は鈴木弥一右衛門という者が、勝手に江戸詰を辞して岡崎に帰ってしまった。忠辰は弥一右衛門を罰することなく、逆に百石を加増して江戸勝手掛を命じた。しかしこの男もこれを拒否した。そこではじめて忠辰は、彼に隠居謹慎を命じ、彼の8歳になる息子に家を継がせた。これらは全ての領民に知れ渡った。やがて同様の事態がこの後、しばしば起きていった。ついに寛延2年(1749)正月、前代未聞の事態が生じた。家老・年寄の全員が、毎年城中で行われる年賀の会を欠席したのである。年賀の会は、藩の行事の中でも極めて重要なものの一つであった。忠辰は使いの者を走らせ、彼らに出席を求めた。するといずれの者も、「それがし病を得てござれば、登城いたしかねる」という返事。しかし中にはそう言いつつ、自分の屋敷の馬場で馬の調練をしている者もいた。2日、3日と経過するが誰一人として登城してこない。そこで用人の中村紋左衛門が各老臣を説得して回ったが、彼らは紋左衛門をにべもなく追い返した。江戸でこの報せを受けた用人、山田左次馬と留守居役、牛尾四郎左衛門の二人が急遽岡崎に帰り、忠辰と老臣たちとの関係修復に走り回った。その結果、わずかな譲歩はあったが、根本の解決など不可能であった。

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