J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2010年09月号

第30回 能力開発総合大会 HRDJAPANの歴史を振り返る 人・組織づくりの基軸を問い直す大切にすること、変えること

アジア最大級の能力開発総合大会「HRDJAPAN」は今年度で30回目(9月8日~10日開催)。
その軌跡を振り返れば、日本企業が置かれてきた背景と、人材開発の潮流が見えてくる。
背景も潮流も変化は激しいが、HRDJAPAN30回記念大会の統一テーマに通じる、人・組織づくりの“基軸”は確かにある。

小峯 郁江
日本能率協会 教育・研修事業ユニット 人事教育事業グループ 公開教育チーム マネジャー

30回目を迎える、能力開発総合大会「HRD JAPAN」。1982年の第1回開催時から、セッションテーマに「国際化/グローバル」「組織の活性化」など、現在と変わらぬキーワードが毎回登場する。言葉の表現に大きな変化はなくても、いずれのテーマもこの約30年間で、それぞれの課題に対するアプローチが異なる。一方で、働く人の意欲を重視しながらさまざまな試行錯誤を繰り返している点は、時代を超えて共通している。

そこで、今回のHRD JAPAN30回記念大会が標榜する「人・組織づくりの基軸を問い直す~大切にすること、変えること」を念頭に、1980年代から現在に至る、経済・社会的環境と人材マネジメント、そしてHRD JAPANの歴史を振り返ってみたい。

1980年代 国際化する日本企業

HRD JAPANが始まった1980年代前半は、円安ドル高を背景に日本の輸出産業の多くが、海外企業とのアライアンス、あるいは海外企業の買収によって積極的にビジネスの国際化を推し進めていた。1985年のプラザ合意を境に、状況は変化する。急速な円高によって、日本の輸出型企業は日本本社から海外事業のオペレーションにかかわっていくだけではなく、海外現地での生産体制を整え始めた。また日本政府が円高不況対策として金融緩和と財政出動を行った結果、1980年代後半は不動産や株式への投機が過熱した。日本企業による海外不動産の買収はこの当時の象徴的な出来事であった。

日本企業のビジネスが国外へと広がっていった状況を背景に、第1回HRD JAPANでもすでに国際化をテーマとしたセッションが開催されている。事例の主たる内容は、日本人が国際舞台で活躍できるようになるための英語力養成プログラムである。この後も、事業戦略に連動した人材育成の中で、国際化教育は継続的にテーマアップされていくことになる。

一方、この当時のHRD JAPANには、組織の活性化をテーマにした事例発表も数多く見られる。そのほとんどは小集団活動を通した生産性向上への取り組み事例であった。「小グループ制で高品質なサービス追求」「業務改善運動と企業体質強化」といった講演テーマが並ぶ。これらの事例は、製造現場における省力化・コストダウン等の改善活動事例だけではなく、ホワイトカラーの生産性向上も含んでいる。職場にオートメーション機器が導入され始めた時代であったことも背景に、ホワイトカラーにもその仕事の質的な変化が求められるようになったのだろう。

OA機器による業務の効率化も期待された一方で、OA化によって職場で起こり得る人間的側面へのネガティブな影響も当時から懸念されていたことは注目に値する。人間的側面への配慮は、各企業における生産性向上への取り組みに、違った面でも表れている。仕事をする人の心の持ちようが仕事の生産性向上に寄与するという考えから、人材の意欲向上を図るための職務・責任・権限の明確化や、コミュニケーションが活発な組織づくりをめざした諸活動が紹介されている。

1990年代 選択と集中の時代

1990年になると国際化教育の内容は語学教育から国際コミュニケーション・国際マネジメントへと変化する。海外で仕事ができるビジネスパーソンを育成する意図が見られる。また、これらの教育に加えて海外赴任に関する知識教育が付随していることから、当時は日本本社の人材が海外拠点に赴任することを前提とした国際化教育であったことがわかる。

以降、各企業において国際化教育は1990年代を通して進化したかもしれないが、HRD JAPANでの事例を見る限りにおいては、1992年のバブル崩壊と同時にその存在は影を潜めてしまう。一方、1990年代の各年の統一テーマには“選抜と選択”“選択と集中”“変革”“革新”といった、不況期を乗り切るために厳しい人事政策が求められていたことを表す言葉が並ぶ。

1990年代のセッションテーマを振り返ってみると、多く取り上げられていたのは、成果主義人事制度と次世代リーダーの選抜育成である。2000年代になってこそ成果主義の運用問題が一般的に多く語られるようになっていたが、HRD JAPANでは成果主義人事制度導入当時から、公正な人事評価制度であることを評価しながらも、従業員の意欲に与える影響については注意を払い、納得性の高い運用を呼びかけていたことがわかる。選抜育成については、社内に経営スクールや塾を開設し、主に課長・部長クラスを対象とした経営者育成を一斉に展開した。この教育の中に、前述の国際教育の一部は取り込まれていったといえる。いずれにしても、従業員全体の底上げから一部の限られた選抜人材へと、教育投資の「選択と集中」が行われた時代であった。

また、1990年代は職場におけるIT化の加速も顕著であった。1980年代後半に大手企業の管理職を中心にパソコン支給が始まったが、1990年代になるとPCの支給はあっという間に全社員に広がった。IT化によって各人の仕事の生産性向上が期待されたが、結果として人員削減を余儀なくされた時期でもあっただけに、多くの企業では1人当たりの仕事量が減ることはなかったのではないだろうか。ITが時間と場所を問わず広範囲な人々とつながることができる環境をつくり上げたこともあり、仕事の生産性が高まったとはいい難い。HRD JAPANの事例でも、厳しい経済環境の中で労務費抑制が必要ではありながら、IT化では解決できない働き方の改善に対して、ホワイトカラー生産性向上や時短を扱ったテーマを1980年代初めに引き続き多く取り上げている。

職場のIT化が招いた最も大きな課題は、コミュニケーションの希薄化である。個人の成果を重視した当時の人事制度の流れと重なり、チームワークよりも個人プレーが優先される個人主義の傾向が高まったといえる。後に2000年代に入り、この傾向に対する揺り戻しの施策が多く見られるようになる。

2000年代前半 不況の幕開けを見据えた新価値創造期

1990年代後半から2000年代前半になると、ビジネスの国際化に応じた人材育成のテーマが再びクローズアップされる。海外拠点におけるローカル(現地)人材マネジメントが新しいテーマとして登場する。多くの日本企業が製造拠点として積極的に進出した中国における人材マネジメントの課題が、2003年にセッションテーマとして取り上げられている。コスト競争力強化のためのアジア進出が、現地でのより多くの労働力を必要とし、その結果、異なる文化の中でのマネジメントの難しさが浮き彫りになった。当時挙げられていた課題は、欧米企業と比較して、処遇や教育機会など人事・人材育成面での日本企業の国際競争力の弱さである。これに対する取り組みとして、欧米流のグローバル人材マネジメント基盤の構築ではなく、既存の人材マネジメントをローカルの労働環境に合ったシステムへ適応させ、現地従業員を戦力化している事例が紹介されている。また、マネジメントの現地化をめざし、マネジメント候補となる優秀なローカル人材の確保と育成に注力している事例も見られる。

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