J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2011年10月号

人材教育最前線 プロフェッショナル編 フランス映画のような余韻で 研修と現場の学びをつなぐ

工業用シール剤・接着剤の分野のリーディングカンパニーであるスリーボンドの創業は1955年。現在は、日本、北中米、南米、欧州、アジア、中国の世界6極体制を軸としたネットワークづくりを進めている。人材開発部部長の大石正人氏は、12年もの長きにわたるアメリカ駐在の経験を持つ。社会人野球の選手としてスリーボンドに入社した大石氏は、ユニフォームからスーツに着替えた後も、営業、海外転勤、そして教育担当と幾度となく試練を乗り越えてきた。未知の役割にも常に全力投球する強さと情熱を持つ大石氏に、人材開発への思いを聞いた。


人材開発部 部長
大石 正人(Masato Oishi)
1986年4月スリーボンド入社、研究所・研究統括部配属(硬式野球部)。1988年福岡支店へ異動。1991年ThreeBond USA,Inc.、1997年ThreeBond International, Incへの出向を経て、2000年スリーボンド サンノゼ駐在員事務所 所長就任。2004年営業本部営業三課 課長、2009年人事部人材開発課 課長を歴任。2011年現在に至る。

スリーボンド
1955年東京スリーボンドとして創業。工業用接着剤などの製造・開発販売を手がける。創業理念として「仕事を通じて愛を実現する」「仕事を通じて人類、社会に奉仕する」「仕事を通じて魂の向上、発展をはかる」を掲げ、国内約100カ所、海外約50カ所に生産・販売拠点を設ける。
資本金:3億円、売上高:341億円(2010年度実績)、従業員数:411名(2010年12月末現在)

取材・文/浅久野 映子、写真/髙橋 美香

渡米で自覚した日本人であること

スリーボンドの人材開発部長、大石正人氏の経歴はユニークだ。「教育学部出身ですから、本来なら高校教師として教鞭を執っていたはずでした(笑)」もっとも、教員志望は大学2年まで。大石氏は、大学3年で方向転換し、野球で身を立てる道を選んだ。というのも、大学の2年先輩に当たり、現在はスポーツキャスターとして活躍する栗山英樹氏が、この年、ドラフト外でヤクルトスワローズに入団したからだ。野球部の仲間たちからも「次はお前だ」と期待されていた大石氏は、まずは社会人野球の選手として活躍することをめざし、最初に内定が確定したスリーボンドに入社した。スリーボンドには、1970年代から1990年代にかけて硬式野球部があった。大石氏が就職を決めた当時は、都市対抗でベスト8に入るほどの強豪チームだった。しかし現実は厳しい。2年後、大石氏の野球人生は幕を閉じる。戦力外を通告されたのである。しかしまもなく、スリーボンドでビジネスマンとしての道を歩もうと、気持ちを切り替えた。「野球で身を立てることが難しくなり、ショックはショックでしたが、思ったほど気落ちはしませんでした。新天地の福岡は、山梨県出身の私には初めての土地。仕事が面白かったのか、上司や同僚と一緒に仕事をすることが楽しかったのか、九州という土地柄に合ったのか……。おそらく、その全てに恵まれたからこそ、心機一転、仕事に没頭できたのかもしれませんね」スーツ姿も板についた3年半後の1991年8月、大石氏は突然アメリカへの出向を命じられる。29歳だった。以来、2004年の元旦に日本に戻ってくるまで、大石氏はアメリカで過ごすことになる。その年数は、実に12年と4カ月。「アメリカという国、人々、文化と比較することで、日本という国、日本人であるということを非常に意識するようになりました」最初の4年間は、アメリカ社会に適応するのに精一杯だったという大石氏。赴任先は中西部のオハイオ州シンシナティだった。ニューヨークやロサンゼルスといった大都市のような、「人種のるつぼ」といった雰囲気はない。現地の人たちには、外国訛りの言葉を理解しようという姿勢もあまりなかった。営業で結果を出すには、現地の人たちと対等に会話できる語学力が必要だった。「アシスタントマネジャーという立場で赴任したため、マネジメントだけではなく、営業マンとしての結果も出すことが求められていました。商品説明ができない営業マンなど、それこそ話になりません。何としてもネイティブと対等にビジネスができる英会話をマスターしなければと、徹底して英語を学びましたね」

方向性を確定する日本とトライ&エラーのアメリカ

当時の日米関係は、決して良好とはいえなかった。1985年のプラザ合意以降、自動車をはじめとする日本の製造業はアメリカでの現地生産、販売を本格的にスタートさせる。その結果、摩擦も顕在化。日本企業の車が叩き壊されたり、日本製のテープレコーダーがつぶされるといった事件が勃発。その結果、BuyAmerican運動が起きた。「当初、我々は現地に進出した日系企業をターゲットにして営業活動を行っていました。しかし、それでは売り上げは先細りになるばかり。厳しい競争下で業績を上げるためには、販路を開拓しなければならないと新規営業をすることにしました」大石氏は、アメリカ人の部下とともに車で現地の会社を回った。アメリカは広い。1社訪問するのに数時間も車を運転し続けなければならないこともざらだった。まさしく体当たりの営業である。またプライベートでは、1992年に自宅を購入。アパートなら何か起きれば管理会社が対応してくれるが、持ち家ではそうはいかない。近所付き合いも濃密なものになった。現地に根ざした生活でのさまざまな経験から、日本人の強み、弱みを自覚していったという。「よくいわれますが、弱みは自己主張しないこと。また、日本人は『3S』と揶揄されます。Sleep、Silence、Smile。日本人は会議の時に居眠りし、意見を述べず、最後は笑ってごまかす、という意味です。そして意思決定が遅い日本人と違い、アメリカ人はトライ&エラーの文化。取りかかるのも実行するのも早いですが、ダメならリセットしてスタート時点に戻ります。一方、日本人は、全ての可能性を否定せず、方向性が決まるまで慎重に事を運びます。最終的な決定がなされた後は、一気呵成に取り組む。日本の意思決定のスピードが遅いといわれるのは、このように思考が深いためであって、むしろ強みなのかもしれません」日本人としてのアイデンティティについて真剣に考えるようになったのは、そうした日々を過ごしてからだ。日本という国、文化について答えることができない自分を恥じて、母国について改めて学んだ。そして2000年、大石氏はシリコンバレーの中心都市サンノゼの駐在員事務所の開設を実現させる。所長として4年間を過ごす間、「アメリカに永住してもいい」とまで思うようになっていた。グローバル化とは、アメリカのビジネススタイルが世界に広がっていくことだと実感していたため、営業職の大石氏にとって“ビジネスの最先端”での仕事にやりがいがあったからである。一方で、サンノゼにいるからこそ見えてくる国際社会の動きを日本に発信したいとも思っていた。このままではモノづくり大国としての日本のプレゼンスがなくなるという危機感を強く感じていたからだ。そんな時、大石氏は帰国の辞令を受けた。「野球の戦力外を告げられた時以上にショックでしたね」大石氏は、ハードディスクドライブのカバーシールを作る新たなビジネスのプロジェクトマネジメントを任されたのである。営業はもちろん、試作品の依頼、サンプルの提供、そしてタイ工場での製造、加工など、一連の作業を全て取りまとめる。

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