J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2012年07月号

Opinion 1 “教え”の本質は“学び”にあり ――江戸時代に見る教育の原理

企業の中で、先輩から後輩にいかに“教える”か。 また、職場のメンバーが互いに教え合い、学び合うためにはどうすれば良いかが課題となっている。そもそも、“教える”ということの本質は何だろうか。京都大学名誉教授の辻本雅史氏は、江戸時代の手習塾や藩校などで行われていたのは、「教え込む」のではなく、「滲み込ませる」教育であったと述べる。 江戸の学びについて考えることで、「教える―学ぶ」という関係性が多様に変化する企業の人材育成のヒントを探りたい。

辻本 雅史(つじもと・まさし)氏
1949年生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。光華女子大学、甲南女子大学教授を経て、京都大学大学院教育学研究科教授に。2012年3月に退職し、名誉教授となる。専門は、日本教育史、思想史。江戸期の教育と思想の研究から、日本の社会の特質や教育文化を読み解いている。著書に『「学び」の復権―模倣と習熟―』(岩波現代文庫)、『思想と教育のメディア史』(ぺりかん社)他多数。
[取材・文・写真] = 石原野恵

「教え込み型」学校教育と企業における教育の違い

どのように教え合い、学び合う組織風土をつくっていくか――この問いを江戸時代の側から考えてみたい。江戸時代は文字が普及し民衆にも学びが広がり、近代の原型を形作った時代であった。そこには現代にも通ずる点と異なる点の両面があり、現代の教育を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる。「 教育」の語で多くの人が思い浮かべるのが学校教育だが、江戸時代の学びは、近代の学校教育とは大きく異なっていた。

近代学校教育の特徴は、1人の教師が、発達段階がほぼ同じ数十人の子どもに、画一的な一斉授業で教えるという点にある。教師という“教える専門家”がいて、教えるべき内容をカリキュラムに編成して教える。つまり、子どもの“学び”は、教師の教えがあることによって初めて成り立つという、「教え込み型」の教育観に基づいている。 近代学校制度が導入され、義務教育となった明治以降、学校がこのような一方通行の「教え込み型」になったのは、相応の理由があった。日本国民としての共通の意識を養い社会を担うためには、共通の知識や技術が必要だった。したがって、教える側がその内容を決め、一斉に、画一的に教えるほうが合理的であり、かつ効率的・効果的であったのだ。 一方、この近代学校の教育の方法には問題点もある。小学校からこうした学校教育を受けてきた子どもたちは、教えられることが当たり前であり、教えられていないことは知らなくてもよいのだ、という感覚になってしまいがちだ。 この感覚を持ったまま企業に入るとどうなるか。企業と学校では、「学びの原理」は大きく異なる。企業においては、学ぶべき内容は職種や職場などによって異なるし、日に日に変化もする。画一的に教える一斉授業で教えられるわけがない。必要な知識や技術をビジネスの複雑な環境の中で、仕事を通じて、個々人が自主的に習得していかなくてはならない。 こうした学びが求められる企業教育においては、学校教育よりも、江戸時代の教育がヒントを与えてくれるのではないだろうか。

“教え”ではなく“学び”の「滲み込み型」の教育

江戸期の教育は、人は自ら学ぶ能力を持っており、良いモデルや環境さえあれば、それを真似て自ら学んでいくことができる、という前提に立っている。“教え”ではなく“学び”を基本とした教育観である。

具体的な学びの場としては、手習塾(寺子屋)や藩校(藩士の子弟を教育するために藩が設立した学校)、さらに職人・商人の徒弟制度や、技芸の内弟子制度などがあった。

手習塾を例に見てみよう。手習いの基本は個人の自己学習である。現在の学校のように登校時間が決められているわけではなく、子どもたちは家ごとの生活時間に合わせてバラバラに登校してくる。登校すると、師匠に与えられた手本をめいめいがひたすら真似て手習い(文字を書くこと、習字)をする。

手習いは、単に文字を間違えずに写すだけではなく、手本の文字の形、筆遣いなどの全てを真似て、手本と同じように書くことをめざして繰り返し書き習う。そのようにして、文字を美しく流暢に書く能のうしょ書の技術を身につけていくのだ。

師匠は手本を渡す際、文字の読みと意味を教えた。子どもたちはその意味を頭におき、あるいは口に出して読みながら、理屈抜きに、ひたすら繰り返し行うことによって書く術を体得していくのである。

また江戸時代の学問といえば儒学を指すが、儒学の学びも、まず『孝経』を、次いで『大学』以下の四書五経の儒教古典のテキストを繰り返し素読することを基礎とするものだった。

素読とは、経書を声に出して正確に読み、それをひたすら繰り返すことで、テキストをまるごと正確に暗唱して「身体化」してしまうこと。繰り返すことで、テキスト全てを身体に滲み込ませていく方法という点では、手習いと同様であった。

このように、江戸時代の学びは、「教え込み型」ではなく、「滲み込み型」でなされていたのである。

教育の基本が、“教え”ではなく“学び”にあるということは、裏を返せば、学ぶ側が学ぶ意欲を持たなければ何も始まらないということだ。

江戸時代の儒者、貝原益軒はこの学ぶ意欲を「立志」といい、その重要性を繰り返し説いていた。教える側の都合でカリキュラムを組む今の「教え込み型」の教育とは違い、「滲み込み型」は学ぶ側の自学自習を前提とする。したがって、学びたいと思う「立志」がなければ、教えの中身がどんなに良くても効果がないことになる。

とはいえ、志を持てる人と持てない人がいる。その違いは、目的意識の有無であろう。学びは、自らの能力を磨き高めること。昨日より今日、今日より明日のほうが、自分の価値が確かに上がった、という実感こそ、学ぶ志を育てる最も重要な源ではないだろうか。

ところが今の学校では、全員が同じ教科を同じように教わり、競争する中で、自分の持つ可能性を見限ってしまうことが多い。

しかし本来、人は誰もが学べば必ず伸びていくもの。江戸中期の儒者、荻生徂徠は、「世に棄物棄才なし」と述べている。世の中には、農民もいれば、武士も職人もいるように、さまざまな立場・役割の人がいる。家の建材に、大黒柱がいくつもあれば良いわけではなく、どんなに細い材でも、それぞれに応じた役割を持っている。だから常に自らを見限ることなく希望を持って磨き、それぞれの可能性を高める必要がある。これが徂徠の主張である。

信頼関係を築き「やってみて、やらせる」

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