J.H.倶楽部

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月刊 人材教育 2018年03月号

歴史に学ぶ 女性活躍 最終回 協力して江戸を戦火から救った嫁姑 天璋院篤姫と皇女和宮

明治維新から150年という年に、最終回で取り上げるべき女性たちといえば、篤姫(あつひめ)と和宮である。のちに倒幕勢力となる薩摩から徳川に嫁いだ篤姫。公武合体のため朝廷から幕府へ降嫁させられた和宮。共に徳川家討伐の危機を、どういう才覚と態度をもって乗り越えたのか。


梓澤 要(あずさわ かなめ) 作家
1953 年静岡県生まれ。明治大学文学部史学地理学科卒業。1993 年、『喜娘』で第18 回歴史文学賞を受賞。作品執筆の傍ら、2007年から東洋大学大学院で仏教学を学ぶ。著作に、『橘三千代』『阿修羅』『遊部』『女にこそあれ次郎法師』『捨ててこそ 空也』『光の王国』『荒仏師 運慶』など。最新刊は『画狂其一』(NHK 出版)。

篤姫(あつひめ) 、将軍家定に嫁ぐ

薩摩藩主島津家の分家の娘於一(おかつ)は、藩主島津斉彬(なりあきら)の養女 (幕府への届け出は実子) になって篤姫(あつひめ)(諱(いみな)は敬子(すみこ))と改名、さらに右大臣近衛忠煕(このえただひろ)の養女となり、数え22歳の安政3年(1856)12月、13代将軍徳川家定(いえさだ)(33歳)に嫁いだ。家定はすでに正室を2人失くしており、篤姫は 3人目の御台所(みだいどころ)だった。

家定自身も病弱で、幕政は老中阿部正弘らが主導しており、実子もないため、世継ぎ問題が喫緊の課題だった。候補は、大老井伊直弼(いいなおすけ)らが推す紀州藩主徳川慶福(よしとみ)と、島津斉彬や水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が推す一橋慶喜(よしのぶ)の両名で、斉彬は大奥工作のために篤姫を送り込んだのだった。ちなみに、斉彬と篤姫との連絡役に選ばれたのが西郷吉之助、後の隆盛である。

さいわい夫婦仲は睦まじく、一部で篤姫懐妊も期待されたが、家定の体調は悪化の一途をたどり、子ができないまま後継問題は激化した。

斉彬の意を受けて篤姫は家定に慶喜を世継に決めるよう説得しようとしたが、大の水戸嫌いの家定の生母本寿院(ほんじゅいん)が、慶喜を将軍にするなら自害するとまで言い出し、斉彬ら一橋派の目論見と篤姫の努力が実ることはなかった。

安政5年7月、家定死去。篤姫はわずか1年半余の結婚生活で寡婦となり、落飾して天璋院(てんしょういん)と号した。家定の死のわずか10日後には頼みの斉彬まで急死してしまったから、その悲嘆はいかばかりであったろう。

だが、彼女にはまだ果たさなくてはならない責任が残っていた。家茂(いえもち)と改名して第14代将軍となったのはまだ13歳の少年。黒船来航以来、諸外国の脅威にさらされ、開国か攘夷かで揺れに揺れ、日米修好通商条約が結ばれ、安政の大獄が始まった。尊王の世情に押され、幕府にとって公武合体しか道はなくなってきている。新将軍を支え、徳川家の大奥を束ねていかねばならない立場なのだ。

皇女和宮の降嫁

和宮は孝明天皇の異母妹で、6歳のとき、天皇の勅命で有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約が内定していたから、降嫁の話はまさに青天の霹靂だった。和宮自身、「異人」のいる関東へ行くのを嫌がり、重ねて強く固辞したが、天皇は苦悩しつつも幕府側の強い要請をはねつけることはできなかった。

泣く泣く受け入れた和宮側からの降嫁の条件は、大奥へ入っても万事、御所風のしきたりを厳守すること、御所の女官をお側付きとして常駐させること、亡き父帝仁孝天皇の回忌毎に上洛させること、等々だったが、孝明天皇はさらに、降嫁は公武の熟慮の上での決定と天下に周知させること、老中ら幕閣が交代しても攘夷の誓約は尊守すること、外国との交易によって国民生活が窮乏しないよう対策を講じることを条件に加えた。

これから見ても降嫁はあくまで攘夷を通そうとする朝廷と、開国もやむなしとする幕府のぎりぎりのせめぎあいであったことがよくわかる。文久元年(1861)、和宮は内親王宣下を受けて親子(ちかこ)内親王となり、江戸へ下向。世間では和宮を人質に取るのが幕府の目的だという噂が立ったため、危機感を抱いた天皇は岩倉具視らを同行させて老中に真偽をただすよう命じ、あらためて和宮の意向が適うようにせよと命じた。

その年の暮れ、和宮主従は江戸城本丸大奥に入った。家茂は先の噂を否定するため岩倉らの要求に屈して二心ない旨の誓紙まで書かされた。

だが、実際は和宮の要望はほとんど守られず、天璋院は和宮との初対面に際し、自分が上座に座り、和宮には敷物も出さなかった。天璋院としては、嫁と姑の上下関係のけじめをはっきり示すためであったろうが、婚礼の場では和宮が上座、将軍は下座という異例の処遇でおこなわれ、このねじれ現象が後々まで大奥の女たちの対立を深めることになる。和宮付きの女官が朝廷へ訴えた手紙には、武家のしきたりを強要され、江戸側の意地の悪い仕打ちに和宮が涙することもあると記されている。

だが、そんな和宮の心を解(ほぐ)したのはほかならぬ家茂のやさしさだった。17歳で結婚した同い年の若い夫婦は、葛藤の中で徐々に心通わせるようになっていったのである。

婚礼からほぼ一年の翌春、家茂の上洛の際には、和宮は家康の守り本尊だった芝増上寺の黒本尊の御札を勧請し、城内でお百度を踏んで夫の旅の安全と無事の帰還を祈った。

また、あるとき、天璋院と夫婦がともに庭に出ようとして、家茂の履物が踏石の上に揃えて置かれていないのに気づいた和宮は、すばやく裸足のまま地面に降り、自ら履物を揃えたという。それを見た天璋院はさぞ驚き、安堵もしたであろう。和宮のとっさの行動は、人としての情愛のなせるわざである。情愛こそが確執や対立を乗り越えさせる。

それからの天璋院と和宮は理解し合い協力し合う同志になっていった。

家茂の死と後継問題

家茂と和宮の仲睦まじさによって大奥は平穏になったが、世情はますます混迷の度を深めていった。

坂下門外の変を皮切りに、生麦事件、長州藩の下関での米艦隊砲撃、薩英戦争、八月十八日の政変と、刻一刻と状況が変わり、緊迫していく。元治元年(1864)、前年の政変で都を追われた長州藩が御所を襲撃する禁門の変が起こり、家茂は長州征伐の命令を下し、一旦はおさまったが、再び尊王攘夷派が実権を掌握したため、翌慶応元年5月、家茂は自ら討伐を指揮すべく上洛し、参内ののち、大坂城へ入った。

長州征伐の勅許は得たものの薩摩藩の出兵拒否があってなかなか開戦にいたらず、また、米・英・仏・蘭の4国が通商条約と兵庫浦の開港を求めて集結するなど多事多難に、家茂は多大のストレスから体調を崩し、食事もままならなくなっていった。

翌慶応2年7月、21歳の若さで死去。直接の死因は脚気衝心だった。

婚礼から4年半弱の結婚生活だったが、3度の上方滞在により、一緒にいられた期間は短かった。和宮は落飾して静寛院宮(せいかんいんのみや)と号した。

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